喫茶去
おのれに存する偉大なるものの小を感ずることのできない人は、他人に存する小なるものの偉大を見のがしがちである。
― 岡倉覚三 「茶の本」 (村岡博 訳) ―
「茶の本」は岩波文庫で本文80ページにも満たぬ小冊子である。
その「茶の本」の中に、たとえば、こんな一行がある。
たぶん、こんな一行があるだけで、この本が読むに値する本だということがわかる。
などということを思い出したのは先日の夕刊に「鑑定士と顔のない依頼人」という映画のスチル写真が載っていたからである。
ジェフリー・ラッシュという役者が演じる美術鑑定士が部屋の中に立っている写真である。
その写真を見て「変だなあ」と思うのは、その部屋には壁も見えぬほどに無数の肖像画が掛けられていることである。
「なんなんだろう、これは!」と思うのは、私が日本人だからで、絵と絵の間に空間がないと、なにやら落ち付かない。
というよりは一部屋に絵が一つあれば、それで沢山じゃないか、という気になる。
けれども、どうやら西洋の人というのは、壁じゅうに絵を飾って、それでもそれを美しいと思うものらしい。
天心、岡本覚三が東洋美術部の顧問としてボストン美術館に行った時も、その美術館の展示はどうやらこのようなものであったらしい。
それを、今や世界標準としてどこの美術館でもそうするように絵と絵の間に空間を設けて展示するようになったのは、天心の指示によるものらしい。
なぜ、そうするのがよいか、その精神の根幹にあるものを英文で書いたものが「茶の本」だ、といえばいいだろうか。
スカイツリーだ、オリンピックだ!アベノミクスだ、「三本の矢」だ!
などと、叫んでは、目に見えるところ、すべてに派手な色を塗らずんばあらず、といった今の日本を見ていると、よほど、日本も西洋化してきたようだが・・・。
おのれに存する偉大なるものの小を感ずることのできない人は、他人に存する小なるものの偉大を見のがしがちである。
誰に読ませたいわけでもないが、仲間内のほめ言葉(=ツイッタ―の「いいね!」)だけに酔いしれて、おのれの行動を客観的に振り返ることもできないこの国一のアホウは、この正月休み、この本でも読んでみればどうだろうか。
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