国語問題必勝法
写字器械奴(め)!
― 中原中也 「玩具の賦(ふ)」―
今年の夏休み、学校の先生に国語の力がつくから言われたからといって、愛ちゃんが「天声人語」の書き写しをやり始めた。
なんでも専用のノートというのが200円ぐらいで売っているらしく、それに書き写すのである。
それで、毎日私の部屋に来るとまず一番に新聞を広げてせっせと書いていた。
「何をバカなことを」
と私は思っていたのである。
そんなものを写して何になるものかと思ったのである。
それに何より、面倒くさいじゃないか、と思っていたのである。
もちろん、まじめに書いている彼女に水を差すようなことはしなかったが。
さて、それから2週間ぐらいしたころ、彼女が、
「私、変わった」
と言うのである。
何が変わったかというと、彼女、新聞を隅々まで読むようになった、と言うのである。
言われてみれば、確かにそうで、 気が付いたら新聞の記事のことで毎日私となにやらいろんなことを話している。
うーん、こいつはすごいことなのかもしれない。
で、私、真君にも言ったのである。
「おまえもやってみればどうじゃ」
「じゃあ、おれ《余録》にするわ」
と言って、真君は毎日新聞の「余録」用のノートを買ってきて、これも毎日書き写し始めた。
もちろん、彼も新聞を読むようになった。
そんなことを二人の高校生がせっせとやっているのを見て、中学三年生の中にも、同じことをやりだす奴が出てきた。
すると、またそれを真似してほかの子もやり始める・・・てなわけで、なんだか知らないが、私の塾は時ならぬ「書き写しブーム」がやって来てしまったのである。
ついには、二年生まで・・・。
なんだか、なかなかすごいことになってきてしまった。
さて、結果、どういうことが起こったかと言うと、実は書き写しをやっていた子どもたち全員の国語の成績が劇的に上がったのである。
いやはや!
これはいかなることなのであろうか。
彼らが口をそろえて言うのは、国語の問題文を読むのが苦ではなくなったらしい。
まあ、国語の問題文ごときを読むに何の雑作やこれあらん、と思う諸兄もおられようが、国語の問題文どころか、数学の文章題すらその文章が何を求めているのかわからないというような生徒が多数いるのである。
ましてや国語ともなると、「時間がなくて最後の問題まで行きつけなかった」なんて子も珍しくないのである。
それが、短い時間で読めるようになったらしい。
加えて、作文や小論文とかいったものを書くのも、気がつくとすらすら筆が進んでしまうらしい。
うーん!
何なんでしょうか、これは。
私は初め「書き写し」と聞いたとき、書き写す内容が大事なのだと思っていた。
たとえば私だって、ノートに、時に、思い立ってなにやら書き写したりするが、それは書いてある内容や表現が「なあるほどぉ」と感じさせたものを書くのであって、どうでもいいような文章なんて書き写しはしない。
もちろん天下に名だたる「天声人語」氏や「余録」氏はたぶんは文章の達人なのであろうが、そう毎日毎日名文を書くってわけにはいかない。
読みながら、時として、いかがなものか、てな文章がないわけではない。
しかるに、彼ら彼女らが「天声人語」やら「余録」を写すのはとりあえず毎日である。
内容なんて吟味しない。
「バカバカしいな、めんどくさいじゃろうな」
そう思っていたのである。
ところが、「書き写す」という作業の本質は、書き写す内容にあったのではなかったのである。
「書き写し」ということの本質は、どうやら「《書き写す》という行為そのもの」の中にあるらしいのだ。
あるいは、そこに「毎日新しい文章を読み続ける」ということを加えてもいい。
すくなくとも彼らを見ているとそういうことになる。
子どもたちの接する世界は狭い。
それは授業で教えられること以外はたとえば学校での出来事であったり、毎週見るドラマだったり、要は自分の身の丈を超えた世界に触れることはほとんどない。
テレビで目にするニュースもほとんどそのコメンテーターの意見を鵜呑みにしているだけだ。
そんなとき毎日六百字余りの文章を読み、かつ書き写す事をする。
このとき、それはもちろんさまざまな情報を読み手に与えている。
しかもその情報の取捨は読み手の好き嫌いによるのではないのだ。
あるいは政治を語り、あるいは経済を論じ、宇宙の果てに思いをはせるかと思えば、マンガの話に及ぶ。
子どもたちはそのほとんどをよく知らない。
知らないことを毎日読むことがどれほど多くの知識を彼らに与え、自分の知らない世界へと目を開かせているかは、たぶん大人の私たちが思う以上のことなのだ。
それが、たぶん彼らを深いところから変えていくのだ。
思ってみれば、実は「勉強」というのはまさに「書き写す」という作業のことではなかったか。
先生の書いた黒板を写し、教科書の漢字を写し、筆算のやり方を写し、英語の綴りを写す。
やらされる本人たちは
「なんとまあ、面倒くさい宿題であろう」
などと思っているのだが、けれどもそうやって人はそれらのものを「身につける」らしいのだ。
「書き写し」をバカにしてはいけない。
たぶん、子どもたちの目を新しい世界に見開かせるのにこれ以上の学習は実はないのかもしれないとさえ、今の私は思っている。
このような学習こそが十年後二十年後の今とは違う世界を彼らが生きていく力をほんとうに付ける学習なのではないかと思ったりしている。
国語の点数が上がることなぞ、むろんそれを身につけさせるための単なる「方便」に過ぎない。
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