情報
全人類の歴史の中で、二〇世紀の子供ほど一生懸命に働いている子供はいない。なにをしているかといえばデータ処理である。今日、子供たちの環境に溢れている情報の量は驚異的なものである。今日ほど大量の情報を毎日処理しなければならない人間はいまだかつて存在しなかったのである。今日、一人一人の子供がデータ処理を迫られているその量は、いかなる人間の標準からいっても大きすぎるのである。
― M・マクルーハン 「マクルーハン理論」 (大前正臣・後藤和彦 訳)―
真君が映画のプレゼンテーションの課題を出されたのは、なんでも「情報」という教科であるらしい。
「なんじゃ、それ?」
と聞くと
「コンピューターとか使って、なんかいろんなことをやってるみたい」
と他人事みたいで一向要領を得ない。
なんでも普通科でも必修らしいのだが 、いったい何をやっておるのか本人たちもよくわからんらしい。
これは、きっと「役に立つ」教科だと思って文科省は必修にしたのであろうけれども、少なくとも真君にはこの科目は『情報は役に立つという《情報》』すら伝えることがうまくいっていないらしい。
よくわからないが、プレゼンテーションのやり方を教えるくらいだから、要は「情報発信」なんてことも教えてるんだろうなあ。
けれども、人間というものは本当にほしい情報は、なんとかして手に入れるものであるし、本当に伝えたいことはなんとかして伝えようとするものだ。
もちろんそれはその時々のメディアを介して行われてきた。
そしてその最新のメディアを使うことに最も積極的だったのは常に若者たちであった。
メディアの扱い方など、なにも文科省が教えなくても子どもたちはなんなくクリアしていく。
「情報が大切だ」というとき、忘れてはいけないのは、私たちのものの見方や考え方のスタイルを規定してきたのは情報の内容ではなく、むしろ実はそのメディアだったのだということだ。
手紙をやり取りし、黒電話で語り合っていた私たちと、スマホを手にしている今の若者たちとその持っている意識が違うのは当然である。
ものの見方は当然違っている。
情報量そのものがまるで違うだけではない。
情報のスタイルそのものが違っているのだ。
文化の違いとはたぶんコミュニケーションの違いのことなのだ。
情報とは何か?
私にはわからない。
けれど、その本質とは、その内容にあるのではなくて、実はそれを伝えるメディアのことなのである 。
一九六〇年代、テレビとは何か、を論じたマクルーハンが言ったことはたぶんそういうことだ。
そして、それは実に正しいことだったのだと私は思う。
「情報」という科目が、何をどのように教えているのか私は知らない。
けれども、私たちがものを考えるということが、実はその「情報」を伝えるメディアの様式という枠組みの中でしか行われないのだということぐらいはその教科書の巻頭にでも書いておいてもらいたいとは思う。
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