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自画像としての「風立ちぬ」


ところで、人がほんとうに一番しゃべりたいことは何だ、言ってみろ。

――自分のこと。


― ドストエフスキー 「地下室の手記」 ―

 

 

なんだかわけがわからないままオリンピックが東京に決まって、あたかも日本中がそのことに熱狂しているかのような報道がテレビに溢れていた日、真君と愛ちゃんと三人で夕方宮崎駿監督の映画「風立ちぬ」を観に行った。

なるほど、そういう映画なのかと思って観終わった。
彼はこの映画を子ども向けに作ったのではない。 
彼はこの映画を自分のために作ったのだ。

宮崎はこの作品の試写を観終わったとき
「自分の作品で涙を流したのは初めてだ」
と言ったらしい。
そして、先日長編映画からの引退を発表した
なぜ彼が涙を流し、なぜ彼がこの作品で監督を引退するのか、理由は簡単なことなのだ。
それは、この映画が堀越二郎という零戦を設計した男に仮託した宮崎自身の「自画像」であるからだ。
エンドロールに流れる荒井由美の「ひこうき雲」は彼自身のための歌だったからだ。
彼は自分で自分の告別式に流れるべき歌を選んだのだ。
彼は自己愛への規制を解いたのだ。

主人公の堀越二郎という少年は近眼で飛行機乗りになれない。
だから彼は飛行機を設計する人になろうとする。
大人になった彼は大きな卓に向い飛行機の設計図を引いている。
鉛筆をとがらせ、消しゴムを使い明確できれいな線を引く。
幾枚も幾枚も、家に帰ってからさえもそれを描きつづける。
それはアニメの原画を描き続けてきた宮崎自身のことだ。
また、二郎の設計図が実際の飛行機になるのは多くの技術屋や職工たちの手によってだが、同じように宮崎の原画に動きを与え映画に仕上げるのは多くのスタッフの手によるものだろう。
それは偶然の相似ではないはずだ。
そこには何かの仮託があるだろう。
もし、彼の「自画像」として描かれた部分があるとしてこの映画を読み解いていけば その他のさまざまな場面についてもまた語ることもできるのだが、そんなことをするとまたまたわけもなく長くなってしまうのでやめる。
それに、物事を単一の視点でのみ語ることも馬鹿げてはいるのは言うまでもない。

 

ところで今回映画が始まって30分ほどしたころ不意にスクリーンから光と音が消えてしまった。
昔の映画館ではフィルムが切れルなどということもたびたびあったものだが、こんなことは全く久しぶりのことだ。
一緒に映画を観ていた真君や愛ちゃんには初めての経験だろう。
すこし興奮しているようだ。
停電?
音の消えた劇場の外から雷の音が聞こえてくる。
なんだか不思議な気分だ。

やがて明りが着き、係員が来て、どこかに落雷があって停電になったが三分ほどしたら映画は再開すると告げた。
けれどもそれから30分以上映画は中断したままだった。
途中で帰った客も何人かいた。
彼らにとっては是は「風立ちぬ」ではなく「席立ちぬ」という映画だったわけだ。

 

ちなみに映画館を出た私の頭の中で鳴っていたのは荒井由美の「ひこうき雲」ではなく、井上陽水のこんな歌だった。

 

ラララ ラ―ラララ ラ―ララララ―

それがおーとこのすーがたなら

私もつい あこがれてーしーまーうー


 


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