四日
そもそもおれが一切の愛しいもの、大切なものを投げ捨てて、千露里もの行軍に飢え、酷寒、炎天に悩みながらこんな所までやって来たのは、そして、今こうしてこの苦しみの中に寝ているのは、ただこの不幸な男の命を絶つためだけだったのだろうか?いったい、おれはこの殺人のほかに、何か軍の目的に副うようなことをやっただろうか?殺人、人殺ろ・・・・・し、そりゃだれのことだ?このおれじゃないか!
― ガルシン 「四日間」 (中村融 訳)―
「あと、四日しかねえよー」
串田君が言う。
土曜日のことである。
四日経つと登校日で、その日に読書感想文を提出しなければならないらしい。
「まだ、俺、本も読んでねーし」
「俺も―」
みんなが声をそろえる。
「せんせ、明日も来ていいですか。読感文書くから」
「あのね、明日はね、久しぶりの私のおやすみなの。
毎日毎日朝から君たちの相手をして、そのあとは高校生がやって来て、私、クタクタのクタなの。
だから、おねがい!おやすみにして!!」
そう言ってる私、笑いながらだから、子供たちはもちろん許しが出たと思っている。
ヨワッタものだ、バレている。
また休みがなくなる!
日曜はみんな朝から弁当と分厚い本を持参。
気合い満点だ。
串田君も分厚い本を持ってきている。
なんだかよくわからんが、あの世の人と交流できるとかいうような小説らしい。
あんた、そんなもん読むだけで一日つぶれるではないか、と思っていたら、案の定、一時間ほどして
「ダメだ、これじゃあ間に合わない!」
と言う。
それはそうだろう。
みんなで笑っていたら、
「せんせ、なんか短いいい本ありませんか」
と言う。
そんなこと言われても、私のところに子供向けの本はほとんどない。
それでも昨日の「あと四日」という言葉を思い出して、がルシンの「四日間」を本棚から引っ張り出して渡した。
ちょっとむずかしい漢字も多いので大丈夫かなと思ったが、串田君、まじめな顔で読んでいる。
読み終えて、おもしろかった、と言う。
これなら書ける、と言う。
感動したのだと言う。
「四日間」は1876年の露土戦争に志願した作者自身の体験を元にして書かれた小説である。
脚を撃たれ、自分が刺し殺したトルコ兵の横でその死体の腐臭に耐えながら過ごす四日間の兵士の脳裏に去来する思いが書かれている。
たぶん、こんあことが描かれている小説を読むのは、串田君にとって初めての体験だったのだと思う。
むろん、映画やドラマで戦争の悲惨はこれまでに彼も目にしてきたに違いないし、「戦争はイケナイ」という話も飽きるほど聞いてきたに違いない。
けれども、同じ人間でありながら一方は物質として膨らみ色を変え蛆に食われ腐乱していく死体と、その横にいてまだ精神を持って生きている「おれ」との対比の中に見える極限状態における人間というものの本質を描いたものなぞ、たぶん串田君は今までに読んだこともなかったのだろう。
それが、彼の言う「感動」という言葉の本当の意味なのだと思う。
はてさて、その「読感文」の出来はたいそうつたないものではあったのだが、それはそれでいい。
それよりなにより、串田君が本物の文学をちゃんと読んで感動したことに私は大いに感動したのだった。
よいものはちゃんと読ませないといけないのだ。
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