演じる
彼女の白い腕が
私の地平線のすべてでした
― マックス・ジャコブ 「地平線」 (堀口大学 『月下の一群』)―
カッチンは高校で和太鼓のクラブに入っている。
その「県立八千代高校・鼓組(こぐみ)」というのは「知る人ぞ知る」すばらしい演奏をする部活であるらしい。
「らしい」と言うのは私が「知らぬ人」だからで、そう言われても、「ふーん」としか言う言葉がない。
カッチンは試験勉強に来るたびに
「部活、チョー楽しいィ!」
と言っているので、そうか、たのしいのか、と思っていただけだ。
そのカッチンが、今度部活の公演があるから来て下さい、と券をくれた。
券をもらったからには、まあ、言っちゃあなんだが、「義理」である。
「しょうことなし」だろうと観に行かねばならない。
先週の日曜のことである。
何の期待も持たずに出かけた。
ところが、びっくりしたのである。
はじめ気乗り薄に椅子の背に寄り掛かって観ていた私は、気が付いたら身を乗り出して舞台を観ていたのだった。
私のとなりに座っていた女子高生らしい二人連れは、はじめ演奏がはじまったのにもかかわらずなにやらあれこれ話していたのだが、そんな彼女らもいつのまにか口を閉ざし同じように身を乗り出して舞台に集中していたのだった。
そうやって続いた二時間余りの公演はどの演目も素晴らしかった。
楽器というて、あるのはただただリズムを刻む大小の太鼓に鉦(かね)だけ。
時にそれにメロディーを添えるものと言えば篠笛があるばかりである。
にもかかわらず、それを見、それを聞いている者の心は皆引きつけられてしまうのである。
思えば公演の間、私は、どこにカッチンがいるんだろうなんてことをほとんど考えずに見ていたのだった。
そのことだけでこの公演が「学芸会」や「発表会」程度のものをはるかに超えたものだったことがわかる。
知り合いが出ている公演や競技で、こんなことはなかなかないことである。
ついついその知り合いの姿を探すものである。
「おう、おう、あいつも頑張っとるやないか。エライエライ」
てなもんである。
それを忘れてしまったのである。
これはただごとではない。
これはなんとしたことであろうか。
たとえば、それは身体に直接響いてくる太鼓という楽器の持つ物理的な力のせいなのだろうか。
それとも、リズムというものが人に与える根源的な何かのせいなのだろうか。
たぶん、それはどちらも正しいのだろうが、またそのどちらもちがうだろう。
なぜなら、たとえば私が叩いたとしても、その太鼓の音はけっして人の心を惹きつけることなぞできないからだ。
たとえ〈太鼓〉や〈リズム〉といったものにそのような力があったとしても、その力を引き出す技量が奏者になければ、それはただの音のつながりに過ぎないものなのは言うまでもない。
それを引き出すには技量がいる。
そんな技量を、太鼓に関してまったくの素人であった高校生がたった1年や2年のうちに身につけ、なぜ、こんなにも人の心を打つような演奏ができるようになるのか。
観終わってそれが不思議だった。
どんな力が彼らをそうさせるのか。
そんなことを考えながら帰り路を歩いていた。
練習、と言えば、そのとおりである。
それも、ここまで人を感動させるのだ、なまなかな練習であるはずがない。
けれども、何が彼らをそんな練習に駆り立てるのだろう。
それを考えていた。
彼らが目にし耳に聞いたとき彼らの先輩たちの演奏から受けた感動を、自分たちも与えられるようになりたいという思いが彼らを入部させたのだろうと思う。
けれども、そんなあこがれめいたもので入部してきただけの彼らを、たぶんは厳しいのだろう練習にも耐えさせる「何か」がそこにはあったはずだ。
たとえば、指導者の力量、あるいはメソッド。
あるいはそれにつちかわれて来た伝統。
そのようなものがそこには確かにあるはずなのだが、全くの部外者であり素人である私に、その実体がどのようなものであるかはまったくわからない。
そんな私は「人に見せる」という、なんだか茫漠としたことを考えていた。
あるいは「人に見られる」ということについて考えていた。
それが人に与える力のことを考えていた。
「演じる」というのは、まず自分の行動に他者の視線を意識することをいうのだろう。
学芸会に出る小学生すら人に見られていることを意識する。
そして緊張する。
そして「上手に出来たわね」と言われればうれしくなる。
しかしながら子どもたちが意識するのはあくまで「自分を見ている人」の目だけである。
お母さんに、あるいは自分の好きな子に、自分はどう見えているだろうと思うだけである。
(むろん、そんなことなんて、なーんにも考えていないぼーっとした子もいっぱいるのだが)
彼らにはそれ以上の他者が見えていない。
たとえば、私は機会があっていくつかの団体が合同して公演するダンスやバレエを何度か観に行ったことがある。
そこにあったのは、残念ながら「仲間褒め」の世界だった。
ときとして、ひとつのパフォーマンスが終わると、その友だちや仲間と思える者たちから喚声や掛け声がかかることがあった。
舞台の上で、それに応える者さえいる。
終わってからロビーで「チョーよかったよ」という声も聞こえる。
仲間褒めである。
ダメだろう、と私は思う。
彼らは、けっして上手にはなれないだろうと思う。
それは、いかに彼らの技量が向上しようと、彼らの意識が「学芸会」もしくは「文化祭」のレベルにしかないことが明らかだからだ。
彼らには、ほんとうの「他者」がいないからだ。
その結果彼らは演技の中から「自分」をいつまでも消せないだろう。
仲間しかいない世界に向上はない。
自分と同じ目を持つ者の目しか意識に持てない者に、もう一つ上の世界の地平は見えてこない。
「鼓組」に入っている高校生たちも、たぶんは自分をカッコ良く見せたいと思っていたに決まっている。
けれども、どこかで、そう思っている「自分」が消えていったのだと思う。
うまく演奏しようと練習を積むうちにいつか彼らは「曲が要求するもの」にひたすら応えようとしはじめるようになったのだと思う。
公演が近づくにつれ、人前でやるとき自分たちに求めるものが、そこにいる人たちの「評価=受け」ではなく、「その曲のもっとも素晴らしい姿」をそこにいる人たちに見せること自体へと変わっていくのではないかと思うのだ。
たぶん、演者には「演じる」とき感じる他者の視線の「他者」が、どこかで「観客」から「曲そのものが求めるもの」へと変わるときがあるのだろうと思う。
それができたとき、人は無用な自意識をなくし、素晴らしい演奏や演技をすることができるのではなかろうか。
・・・などと、一週間前、例によってどうでもよいことを考えていた私に、昨日部屋の隅から
「せんせ、見て、見て。すごいでしょ!」
試験勉強に来ているカッチンが言う。
見れば両腕を曲げて力こぶをつくっている。
たしかにぷっくりと女の子とも思えぬなかなかの筋肉である。
一年数か月の間、太鼓を叩きつづけているうちに、このような力こぶができる腕になってしまったわけだ。
スゴイなあ!
なーんにも考えていない。
というわけで、今日私の目にした《地平線》には小高い丘があったってことだ。
西洋の詩人の「地平線のすべて」にはなりそうもないその腕は、すこし日に焼けている《地平線》だった。
それでも、なかなかよろしき《地平線》だった。
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