凱風舎
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コーヒーが飲めない

 

 ソロンは老年になってからも多くを学ぶことができると言ったけれども、それを信じてはいけない。
 学ぶことは走ることよりもだめになるだろうからね。

 

 ― プラトン 「国家」 ―

 

 思えば、その日ははじめから変だったのだ。
 朝起きてコーヒーを淹れようとしたら、コーヒーの豆挽きがどこにも見つからないのだ。
 私はひとわたり部屋を見回し、台所へ行き、また戻って来て机の下をのぞき・・・・けれどもどこにも豆挽きは見当たらない。
 そもそも、豆挽きなんてものは、あちこちに持って歩くものではない。
 まして私はいくつも部屋があるようなところに暮らしているわけではない。
 ふすまをはずしたぶち抜きの部屋が一つ。
 見晴らしは良い。
 それなのに、そいつが見当たらないのだ。
 おかしいではないか!

 目覚めのコーヒーが飲めないので、だんだん私はイライラしてくる。
 で、また机の下をのぞき、台所に立ち・・・、しかし、ないものはない。
 見つからないものは見つからない。
 うーん。

 「おっかしいなあ」
 私は大きく独り言を言う。
 声に出して言ったって、見つかるわけではない。
 それで、私はあきらめて新聞を広げる。

 能見ががんばって阪神の連敗も止まったらしい。
 (結構なことである)
 しかし、巨人も勝っている。
 (うーん)
 ・・・などと思いながら、ふと、新聞から目をあげて横を見ると・・・・・・

 驚くべし、なんと隣の机の上に、探していた豆挽きが鎮座しているではないか!
 え、ええっ!?
 ほんなアホな。

 言っておきますが、その机の上には花束を差した花瓶代わりの白いティーポットのほか何にも載っていないのである。
 本一冊、紙切れ一枚あるわけじゃない。
 実にさっぱり片付いている。
 その上に花を飾ったポットとコーヒーミル。
 ほかに何もない。
 なのに、私、それに気づかなかった。
 さっき十分以上部屋を探し回っておったのに、です。
 たぶん目には入っていた。
 にもかかわらず、私にはそれが自分が探していものだとはわからなかったらしい。
 こういうのは「灯台もと暗し」なんてのをはるかに超えています。
 なんなんですか、私の目は!!
 まあ、豆挽きと机は同じような色をしていて、保護色の役割をしていたのかもしれない、ということは一応念のために言っておきますけど、まあ、こんなのはちっとも弁護の意味をなさない。

 もちろん、学識豊かなテラニシ氏は、脳において光の反応を受けとる部位と、その形態を認識する部位、さらにはそれが何物であるかを判断する部位が、それぞれ別のところにあることは知っております。
 ということは、問題は私の「目」にあるのではなく、「脳」の中にあるんです。
 言うてしまえば「認知機能の低下」ってやつですな。
 いやはや、年を取るということは・・・・。 

 とはいえ、このような「認知機能の低下」も、朝起きてコーヒーを飲まなかったせいです。
 すべてはコーヒーが解決してくれるはずです。
 私、さっそくガラスの密封ジャーの栓を開け、コーヒー豆を計量スプーンに二杯豆挽きの上部に入れる。
 ヤカンを火に掛け、そして戻って来て、椅子に座ってゴリゴリとミルを回す。
 湯が沸いた音がする。
 台所に立ちヤカンを手に戻って来る。
 ドリッパーの上に濾紙を広げ、粉を均し、熱湯を注ぐ。
 そこから、蒸らしに20秒。
 (これが金沢片町、「喫茶・狼騎」のマスターに教わった旨いコーヒーを淹れる秘訣です)
 というわけで、すこし待つ。
 しかし、人間の頭というのは、空いた時間があると何を考えるかわかったもんじゃありませんな。
 そのとき、机の上のしわしわの紙が目に入ったんですが、どういうわけだか、そのとき私、この紙のしわを熱湯の入ったヤカンをアイロン代わりにして延ばしてみたくなった。
 なんなんですかねえ、この欲望は。
 で、その紙の上にヤカンを置き、ちょいと上から圧して見た。

 すると何が起こったと思います?
 人生、一寸先は闇でございます。
 なんと、ヤカンの取っ手が折れてしまったんですな。
 で、ヤカンはひっくりかえり、熱湯が私の右足に降り注いだんであります。
 アーチチチチチチ!
 言わないわけがありません。
 こういうときのためだけにこの言葉はあるんです。
 私、続きのチチチチチを言いながらあわてて台所へ行き、シンクに右足を入れて、水をジャージャー掛けました。
 いやはや。
 まあ、この応急処置のよろしきを得て、たいしたやけどにはなりませんでしたが、いやはや、人といい、ヤカンといい、おそるべき経年劣化でございます。

 それにしても、それにしても、これが子どもたちがいないところでの出来事でほんとによかったと思いました。
 世のお母さん方、あんまり年寄り爺さんの塾に子どもを預けると、とんでもないやけどの危険がありますよ。 

 と、まあ、そんなわけで、その朝私はコーヒーを結局飲むことができなかったのでした。

        おわり
   
 


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