凱風舎
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       凧        中村稔

 

 夜明けの空は風がふいて乾いていた
 風がふきつけて凧がうごかなかつた
 うごかないのではなかつた 空の高みに
 たえず舞い颶(あが)ろうとしているのだつた

 

 じじつたえず舞い颶つているのだつた
 ほそい紐で地上に繋がれていたから
 風をこらえながら風にのつて
 こまかに平均をたもつているのだつた

 

 ああ記憶のそこに沈みゆく沼地があり
 滅び去つた都市があり 人々がうちひしがれていて
 そして その上の空は乾いていた・・・・・

 

 風がふきつけて凧がうごかなかつた
 うごかないのではなかつた 空の高みに
 鳴つている唸りは聞きとりにくかつたが

 

 

 
 ほかの人はどうなのか知らないが、私は一度も、鳥になりたい、と思ったことがない。
 あるいは、翼がほしい、と思ったこともない。
 若い頃流行った歌にはそのような文句がたくさんあったような気がするが、本当にみんなそんな子どもじみたことを思ったことがあるのかと不思議だった。
 そもそも自分のことを、不自由とも閉塞されているとも感じてはいなかっただけなのかもしれないのだが。

 

 鳥が空を飛ぶことができるのは軽い体と力強い翼があるからだ。
 鳥は凧を嗤うかもしれない。
 そんなにも軽く、せっかく空の高みまで上りながら、なぜ、おまえは自由に空を飛ばないのかと。
 おまえを地上に繋ぐ糸を切ってしまえば、おまえだって風に乗って遠くへ行けるのにと。

 だが、凧が鳥の勧めに従って、もし糸を切ってしまえば、凧は風に飛ばされやがて地上に落ちるしかない。
 彼に揚力を与え、彼を空の高みに支えていたものは、彼に吹く風の力に抗してその場にいることを強いた地上からの糸なのだ。

 もちろん糸を切って飛び立てる者もあろう。
 だが、多くの人は鳥ではない。
 地に生き、地に死ぬ。
 たとえ、凧のように高みに上ったところで、かならずや人は地上から一本の糸に引っ張られなければならない。
 その糸は、「生活」、あるいは「家族」、あるいは「愛」と呼ばれるものが縒り合わさってできている。
 もちろんそれは凧の行動半径をしばるだろう。
 凧は絶えず舞いあがろう舞いあがろうとは思うのだが、けれども、もしその糸が切れて自由になったならば、凧は落ちてくるしかない。
 彼を高みに居続けさせてくれたものは実はその糸なのだ。

 「アベノミクス」と言う。
 「規制緩和」と言う。
 それは、グローバル企業という鳥が、自分の行動が不自由だから糸を切ってくれと言っているのに応えようということだ。
 これらの鳥たちには翼がある。
 そして、これらの鳥たちにはその行動をしばる「愛」がない。
 「守るべきもの」がない。
 あるいはそれらを捨てたからこそ、彼らは自由に世界中どこでも飛んで行けるのだ。
 そして、世界中どこでも自分たちの居心地のよい場所にしろと言う。
 そして、おまえたちもそんなものは捨ててしまえと言う。

 だが、人は鳥ではない。
 鳥にはなれない。
 たとえ空の高みに上っても糸を切らずにいなければならない。
 時に唸りを立てながら、それでもそこにとどまるそのやさしい諦念を中村稔は「凧」という詩にした。

 

  世の中を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば

 

 万葉の昔、山上憶良はそう歌った。
 昔から人は鳥ではない。
 飛び立とうとしてなお飛び立ちかねる人のために政治はあり政府はあるはずだ。
 すくなくとも孔子さんはそう言っていたような気がする。 
 地上から伸びて己を引きとめている糸を大事にする人々を思いやることを、彼はあるいは「仁」と呼んだのではなかったろうか。 


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