鳴る
緑蔭や矢を獲ては鳴る白き的
竹下しづの女
緑に囲まれた弓道場。
遠く的を見据えて射手の立つ磨かれた弓道場の床にさえ周囲の木々の緑が映っているようだ。
やがてゆるやかな所作で矢をつがえられた弓は引絞られ、ふっと弦を放てば矢は弓から真直ぐ初夏の空気を裂いて飛び、白い的に中る。
そのたびに的が鳴る。
今もあるのかどうか、兼六園の横の護国神社の敷地の中の弓道場がこんな感じだった。
ところで、的がいま矢を獲て鳴るとき、その音を立てたのは的だろうか、それとも矢だろうか。
もちろん、矢が中らなければ的は鳴らない。
だが、的がなければ矢は何の手ごたえもなく無辺世界を飛んでゆくだけだろう。
バチがあたらなければ太鼓は鳴らず、弓がこすらなければバイオリンは音も立てない。
奏者のいない楽器は、ただそこにある物に過ぎない。
そして、楽器を持たぬ奏者もまた何一つ音を出すことはできないだろう。
よい音は楽器と奏者が一つになって初めて奏でられる。
ストラディバリウスというバイオリンの名器がある。
それが名器であるのは、それを手にした者が名人であることによって明かされるだろう。
つたない腕しか持たない者は、名器を持っても美しい音色は出せない。
名器は名人を待っているのだ。
今、緑の影射す弓道場の遠くに白い的がある。
そこに飛んできた矢が中り音を立てる。
そのことをこの句の作者竹下しづの女は「獲」という漢字を当てて「える」と読ませている。
そのことによって、彼女は、的もまた、鋭く己を射抜く矢を待っていたことを示している。
そして、この句を得たことは、この緑蔭の中にある弓の的を射抜く矢の音が、彼女という「的」にもまた大きく音を鳴らせたことをも示している。
私たちは矢であり、的である。
私たちの放つ矢とは、私たちの行為や言葉であろう。
けれども、その人らしさとは、実は自らが発する言動によって「矢」となって他を揺することよりも、むしろ「的」としての自分がどんな「矢」によって音を立て揺すぶられるかにあるのではないだろうか。
残念ながら、人という「的」は大きいので、ほとんど中心を外れてしまっている矢に対してさえも音を立ててしまう。
愚にもつかぬニュースにすら。
けれども、誰も皆、ほんとうは自分のまん中を深々と射抜く矢を待ち続けているのではないだろうか。
その矢を獲て、自分という者が本当はどこに中心を持っていたのか、初めてわかるような一撃を欲しているのではないだろうか。
緑蔭や矢を獲ては鳴る白き的
私もまた、美しい軌跡を描いて飛んでくる矢に対してだけ心地よい音立てる的であれたらと思う。
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