奪われた野にも春は来るか
南相馬での仕事が、単なる私のプロフィールになってしまってはいけないことだけは、はっきりしています。
― 鄭周河 (チョン・ジュハ) 《「私にとっての3・11」 奪われた野にも春は来るか》―
経験や体験が、自分の「プロフィール」にしかならない人がいる。
「私は、こんなところへ行きました」
「私はこんなことをしました」
あるいは
「私はこんな役職を歴任しました」
そう言って、あるいはそう書いて、おわりの人がいる。
それが、はたして経験とか体験と呼んでいいものなのか。
それは、単に、人やあるいは自分に見せるための「アリバイ」に過ぎないのではないか.
だが、世の中の多くの人はどうやらそのようなものを経験とか体験と呼ぶらしい。
そして、たとえば現代の多くの「政治家」と呼ばれる人たちの多くも、そのような「経験」や「体験」しかできない人のようだ。
(彼らの場合、それを「実績」と呼んだりするのだが。)
そうして、総理大臣は、被災地の仮設住宅に行ってみたり、どこかの保育所に行って子どもと遊んでみせたりする。
それは、アリバイである。
彼はそこで、けっして何も経験しないだろう。
もちろん、人の中で日々の多くの体験や経験はその場限りで忘れ去られていく。
それはそれでいい。
けれども、そうではない経験や体験というものも人には必ずやあるはずだ。
過ぎたことにもかかわらず、絶えず思い起こし、そのことについて考えさせることを強いるような体験を、人は必ずや持つ。
にもかかわらず、今の世の中は、それを反芻し考えることをあえて避けること勧める。
そうやって考えないことを「前向き」とか「ポジティブシンキング」などといって称揚したりする。
誰もが立ち止まることを怖れている。
そして、自分のマイナスになることはとりあえず「幕引き」をする。
そうやって、それはなかったことにし、考えないようにする。
そうしてはいけないことははっきりしている、と写真家のチョン・ジュハさんは言う。
プロフィールにしてはいけないことがあるのだと言う。
人には、それを単なるエピソードにおとしめてはいけない事柄があるのだ。
※
昨日の午後ETVの「こころの時間」で《私にとっての3・11「奪われた野にも春は来るか」》という番組の再放送をしていた。
そこには、震災後南相馬を何度も訪れて、そこでの写真を撮っている、チョン・ジュハさんという韓国人写真家が出てくる。
彼の語る言葉は、たとえそれが私にはわからぬ韓国語であっても、自分の頭で考え、自分の身体を通って来た言葉なのだとわかる話し方だった。
対象を見つめ、自分を見つめ、考え、そうやって話される言葉だった。
二度目に見る今回もその印象は変わらなかった。
日本語に翻訳されて語られるその言葉も、よい言葉だった。
彼が南相馬で撮った写真を載せた写真集の「奪われた野にも春は来るか」という題は、戦前の韓国の詩人、李相和(イ・サンファ)の詩から取られているのだという。
それは、1927年、彼が26歳のときの詩だという。
奪われた野にも春は来るか
李相和 (イ・サンファ)
いまは他人の土地――奪われた野にも春は来るか
私はいま全身に陽ざしを浴びながら
青い空 緑の野の交わるところを目指して
髪の分け目のような畔を 夢の中を行くようにひたすら歩く
唇を閉ざした空よ 野よ
私はひとりで来たような気がしないが
おまえが誘ったのか 誰が呼んだのか もどかしい 言っておくれ
風は私の耳もとにささやき
しばしも立ち止まらせまいと裾をはためかし
雲雀は垣根越しの少女のように 雲に隠れて楽しげにさえずる
実り豊かに波打つ麦畑よ
夕べ夜半過ぎに降ったやさしい雨で
おまえは麻の束のような美しい髪を洗ったのだね 私の頭まで軽くなった
ひとりでも足どり軽く行こう
乾いた田をめぐる小川は
乳飲み子をあやすように歌をうたい ひとり肩を踊らせて流れていく
蝶々よ 燕よ せかさないでくれ
鶏頭や昼顔の花にも挨拶をしなければ
ヒマの髪油を塗った人が草取りした あの畑を見てみたい
私の手に鍬を握らせておくれ
豊かな乳房のような 柔かなこの土地を
くるぶしが痛くなるほど踏み 心地よい汗を流してみたいのだ
川辺に遊ぶ子どものように
休みなく駆けまわる私の魂よ
なにを求め どこへ行くのか おかしいじゃないか 答えてみろ
私のからだ中 草いきれに包まれ
緑の笑い 緑の悲しみの入り混じる中を
足を引き引き 一日歩く まるで春の精に憑かれたようだ
しかし いまは野を奪われ 春さえも奪われようとしているのだ
その美しい春の野をうたう行間から、抑えつけられた怒りと悲しみがにじみ出てくるような詩だ。
それは宮沢賢治の「春と修羅」と似たような歩行のリズムを持って歌われている。
賢治が詩集『春と修羅』を自費出版したのは1924年。
ほぼ同じ時代の韓国と東北。
いかりのにがさまた青さ
そう歌った賢治と
私の手に鍬を握らせておくれ
と歌ったイ・サンファ。
この相似は偶然ではないだろう。
李相和の詩のなかの「野」を奪ったものは、大日本帝国である。
その野から「春」を奪おうとしているものもまた、大日本帝国である。
では、今、福島で人々から、その「野」と「春」を奪ったものは誰なのか。
かつて、ゆたかに草を茂らせた土は、今「汚染土」として青いシートに覆われ光をさえぎられて、そこに芽吹きは来ない。
いま、国策による原発によって「野」を奪われた者の痛みをわからない者は、植民地時代の韓国・朝鮮の人々の痛みをわからないだろう。
アジア近隣諸国に対して差別的な発言を繰り返す人たちと、原発再稼働を言う人々はなぜ重なるのか。
何気ないごくありふれた風景や写真が意味を持つのは、それを見る者がその背後にある事柄への認識を持つか持たないかによるだろう。
それをもたらすものこそが、知識を含めた《経験》とよばれるものであり、《体験》と呼ばれるものだろう。
立ち止まること。
何度も、何度でも立ち戻ること。
福島はそれを求めているのだと思う。
なぜなら、それは、ぼくらの人生の中のエピソードの一つではけっしてなかったはずだから。
追伸:
あの番組は
《私にとっての「3・11」 奪われた野にも春は来るか》 モノディアロゴス
で検索すると見ることができます。
一時間の番組ですので時間と心に余裕のある時によろしかったらご覧ください。
----------------------------------------------------------------------------