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君もこの花を好きたまふらむ

 

       馬鈴薯の花咲く頃と
       なれりけり
       君もこの花を好きたまふらむ 

                 石川啄木

 

 

 ジャガイモを半分に切ってその断面に灰か何かを塗って、それを下にして土に埋める。
 するとそこから芽が出て、やがて土の中にたくさんのジャガイモができている。
 そんな授業を受けたのは小学校3年生の時だった。
 学校の中庭の仕切られた区画にそうやって自分たちの種イモを埋めたのだった。
 今でもそんなことを覚えているのは、たぶん小学生だった自分はそんなふうにしてイモができることに驚いたのだろうと思う。
 たぶん、知るということの本質は驚くということなのだ。
 驚きを伴わない知識は反復によらなければ消えてしまうのだろう。

 

 昨日、中学校に運動会を見に行った時、校舎の脇の一角にジャガイモの花が咲いていた。
 (中学生も授業でジャガイモを植えるのだろうか)
 「あ、ジャガイモの花」。
 そう思ってそちらに足を向けた私の頭に浮かんできたのは、

  馬鈴薯の花咲く頃と
  なれりけり

という、むかし読み覚えた啄木の歌の前半だった。
 思いもかけぬことだった。
 そんな歌を思い出したことなぞ、ずっとなかったことなのに。
 そもそもジャガイモの畠に向かおうとした時すでに、この歌のことがぼんやりと私の頭の片隅にあったのかもしれない。
 それが足を運ぶその一歩ごとに浮かびあがって来たというような感じだった。 

 啄木の短歌の文庫本を買ったのは、中学生のときだった。
 毎日のように開いていたその本も高校の二年になる頃にはもう開くこともなくなっていた。
 いずれ、人並みに、啄木の感傷を嫌う生意気な思いでも持ったのであろう。
 「今さら啄木でもあるまい」と。
 にもかかわらず、何十年も前の歌がするすると思い出されたのは、当時この歌を読んだ私が「驚いた」せいなのだろうか。
 すくなくとも、よい歌だと思ったのは、どちらかと言えば目立たないこの花を前にして、にもかかわらず

  君もこの花を好きたまふらむ

と歌った啄木に、少なからざる共感を抱いたからにちがいない。

 

 啄木が言う「君」が誰であるのかという、伝記的事実には今も昔も何の興味もない。
 歌からわかることは「君」が今彼のかたわらにいないことだけだ。
 この歌の「君」が、もし馬鈴薯の花を知っている人ならば、この花が咲いている情景の中で二人だけの思い出となるような出来事があったことを示唆して、「だからあなたもこの花が好きなはずだ」と言っているのだろうし、逆に 「君」が馬鈴薯の花というものを知らない人であれば、もしあなたがこれを目にすれば、「あなたのことだ、このようなたたずまいの花をきっとあなたも好きになってくれるだろう」ということだろう。
 十代の私はまちがいなく後者の意味でこの歌を読んだのだろうが、本当にそうかはわからない。

 なにがさて、つつましやかに咲く花を目にしたとき、思わず、今はかたわらにいない人に向かって
  《君もこの花を好きたまふらむ》
と言いたくなる思いこそが、つまりは詩の始まりなのだろうと思うばかりだ。


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