酔っぱらい談義
こうしてそのときは一日じゅう、日が落ちるまで、われわれはつきることのない肉と甘い酒とを飲み食いして坐っていたが、日が落ちて闇が来ると、浜辺で眠りについた。
― ホメーロス 「オデュッセイア」 (高津春繁 訳)―
「舞台の上の人間というのは、生身の人間だけど人間じゃないんですよ」
大石君が言うのである。
なんでも、この間彼は平田オリザの劇を三本観たらしい。
すでに、われわれのワインは二本目に突入している。
「たとえば、今ぼくは先生を見てるじゃないですか。
そうすると、先生は、そうやって見られていることを意識して、多かれ少なかれ行動や言葉を変えますよね。
たとえば、今みたいに首を傾げたり」
「うん」
「ところが、舞台にいる人間というのは、こちらがどんなに近くから見つめていても、その行動やセリフはちっとも変わらないんです]
「なるほど」
「つまりぼくが目の前ににいることに、何の意味も影響も持たないんです。
こっちが首を傾げようが何しようが、彼らは、ぼくがそこにいることと何のかかわりもなく、決められたセリフを言い、決められた所作をするんです」
「そりゃあ、そうだ」
「こないだ、ぼくは小さな劇場の最前列にいたんだけど、そこだと、舞台の上で団扇をあおぐと、こっちにもその風が来るんです。
ところが、そんなに近くにいるのに、ぼくの存在は、舞台の上の人間に何の影響力も持たない。
彼らは、生身の人間としては別の名前を持つ役者なんだけれど、舞台の上ではあくまでその役の人物なのであって、脚本に書かれた通りにしか行動しないんです」
「でなきゃ、劇にならないからな」
「それがなんだかおもしろくて。
ああ、舞台の上の人間は、生身の人間だけど人間じゃないんだなあって」
「なあるほど。
それって、舞台の上の人間は《運命》を生きてるってことか」
「?」
「たとえばギリシアの悲劇なんかで、そこに出てくる人間は、何一つ変えられない、神が決めた《運命》のままに最後の破局に向かって突き進んでいくじゃないか。
もし、その行動が自分の意志によって、あるいは今、現にある状況によって何一つ変えられないとすれば、なにもギリシアの悲劇だけじゃなくて、あらゆる劇は《運命》を表してるってことになるなあ。
だって、舞台の上の人間は何一つ変えられないんだから」
「うーん。
ってことは、逆に、ぼくらのような生身の人間にとっての《運命》ってのはどういうものになるんだろう。
やっぱり自由に変えられないものなんですかねえ。
それとも変えられるけど《運命》って呼んでるのかなあ」
「うーん、なかなかめんどくさいな、これ考えるのは」
「めんどくさいですね」
「と言うか、酔っぱらってるしなあ」
「酔ってますねえ」
「宿題か」
「宿題」
「おー、そう言やあ、舞台の上にいなくても、外界の反応や変化が自分の言動に何の影響も与えない人間ってのもいるなあ。
たとえば、原発事故が起きても、原発は再稼働すべきだ、とかいってる人たち、とか」
「そういうのって、《ぶれない人》って言ってほめられるみたいです」
「あれは誰かが書いた脚本があって、それを繰り返しているだけなのかなあ。
それとも、単に彼らのセンサーが鈍いだけなんだろうかなあ」
「両方でしょ」
「両方か。
で、あれは《運命》を生きてる悲劇の人なのかなあ」
「悲劇じゃないでしょ、葛藤がないんだから」
などと、なんだかわけのわからないことをしゃべっているうちにワイン3本が開いてしまい、気が付いたら大石君はダウンしていたのでありました。
三日の日のことです。
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