凱風舎
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あ~あ~あ~

 

 在りし日を嘆くでない
 失うことの意味がわかるのは
 もっとずっとあとだ

 

 ― 鮎川信夫 「さざなみは海をわたっても」 ―

 

 

 ウクレレを弾きながら
 「あ~ああ~やんなっちゃった。あ~ンがンが、オドロイタッ!」
と歌っていた牧伸二が、 昨日の夜中、自殺したそうである。

 

 ところで、その前日、政府が「主権回復式典」なるものを開いたところ、その終りに、出席を願った天皇皇后両陛下に向かって
 「天皇陛下万歳!」
が唱えられ、安倍首相も、麻生副総理もそれに唱和し、手を上げたそうである。
 なんと、まあ!!

 それは牧伸二の死と関わりはないのかもしれないが、彼が死を選んだ日、そんなことがあったことは覚えておいていいと思う。
  あ~ああ~やんなっちゃった
 たぶん、そうつぶやいて彼は橋から飛び降りたのだろうから。
 

 「あ~ああ~やんなっちゃった。あ~ンがンが、オドロイタッ!」
 それは、あえて言(こと)上げしない普通の人たちの心の中に湧く苦々しい思いを、舞台の上で笑いとともに歌ってみせたすばらしいリフレーンだった。
 彼だけに限らず、かつてはお上や世相を皮肉り皆でそれを笑う芸というものがあった。
 今、そんなことをする芸人がいるのかどうかわたしは知らない。
 知らないが、すくなくとも、本来、自らの位置を低くすることで、笑いと共感を得てきたはずの芸人たちが、政治や世相をしかつめらしい顔で語ってみせる番組の「司会者」や「コメンテーター」になり、あげくは自身も「政治家」になってみせはじめたとき、そのような笑いは消えたのではないだろうか。
 みんなが自分をエラく見せたがる時代。
 かつて、プロレスを、過剰な言いまわしで中継していたアナウンサーまでが、いっぱしの顔をしてニュースにコメントを加え、額に皺を寄せてみせている時代だ。
 たぶん、彼の中からその「過剰に言ってみせる癖」は消えていないだろう。
 言うまでもあるまいが「過剰」とは、心にもないことを言うということである。
 あるいは、心にもないことを言おうとするから表現が過剰になるのだ。
 自分に関わりのないことまで、関心があるようなポーズを取ることへの忌避あるいは嫌悪はこの国の文化から消えてしまったのだろうか。
 

 どこかから 
  あ~ああ~やんなっちゃった
の声が聞こえて来る。
 その声が聞こえ、それに共感して笑うことが失われた国は、不健全な国に違いないのだ。
 ある事柄を上からしかつめらしく批判する者はたくさんいるのに、身をあえて低きに置いて、それを嗤ってみせる者のいなくなった国はどこかおかしいのだ。 


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