墓の裏にまわる
遺棄死体数百といひ数千といふ いのちふたつをもちしものなし
土岐善麿
― 「日本詩人全集 6 若山牧水・窪田空穂・土岐善麿・前田夕暮」―
先日の国会で安倍首相は
「国のために亡くなられた英霊に対して尊崇の念を表すのはあたり前だ」
と、閣僚の靖国参拝を正当化したそうである。
そして、
「我が閣僚はどんな脅かしにも屈しない」
と、大見得を切ったそうである。
まったく、ヨワッタお人である。
日本では死んだら戒名を付けてもらうことになっている。
だから、たいがいの死者には戒名があって、墓にも彫り込んである。
けれども、墓参りに来た遺族で、その人の戒名を呼ぶ者はいない。
そんな名で呼ぶのは坊主だけである。
坊主は他人である。
だから故人をありがたそうな戒名で呼ぶ。
けれども遺族は生前と同じ呼び方で死者に呼びかける。
「ケンちゃん」、あるいは「おとうさん」と。
戦死した兵士たちを「英霊」と呼ぶのは第三者である。
そう呼ぶことができるのは、死んだ者たちがその人にとって他人だからである。
戦死した自分の息子や兄や夫のことを「英霊」などと呼ぶ遺族はいない。
皆、生前の名前で呼びかける。
死を悼むとは、そういうことでしかないからだ。
戦死者を遺族が「英霊」と呼ばないのは、それがいわば戒名に過ぎないからだ。
私の部屋から五分ぐらい行った道路の脇に、わりと大きな墓地がある。
そこにあるのは、ほとんどは1メートルほどの「〇〇家之墓」と書かれた墓である。
けれども、それらの中に、私の背丈をはるかに超える大きな墓がいくつも建っている。
見れば、そのどれもが、皆、昭和の戦争で戦死した男たちの墓だ。
表には
陸軍曹長 某
あるいは
海軍上等兵 某
と軍隊での階級が書かれ、裏にまわれば、ゼブ島沖、マニラ、あるいは香港などと戦死した場所が書かれ、その行年が記されている。
二十歳
二十二歳
三十五歳
十九歳
二十七歳
二十歳
・・・
皆、若い。
一家の墓がある墓域に、なぜ彼らの墓だけが個人名で建てられねばならなかったのか。
それは、その死がありうべからざる死だったからだ。
その死が、まだ生きられる生を途中で無理やり奪い取られた死だからだ。
遺族は、その無念を思う。
その無念を思うがゆえに、彼らは特別に鎮魂せねばならぬと思う。
そうせねば浮かばれまいと思うがゆえに大きな墓を建てるのだ。
もし、彼らの死がただの犬死であり無駄であるなら、その怨嗟は彼らの生を中途で断ち切った日本という国に向かうだろう。
だから、国は言うのだ
「この方々は国のために命をささげた《英霊》である」と。
だが、事実はちがうだろう。
戦死した者たちは「国のために」死んだのではなく「国のせいで」死んだのだ。
戦いに命を落とした人びとを悼む、とは靖国神社に参拝してみせることではない。
すくなくとも政治家と呼ばれる者は、「国家」というものが時としてその国民に死を強制するものであるということへの真摯な畏れを持たないで国家のありようなど語ってもらいたくはない。
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