やむをえない
疲労が重なると、こういう生活がもたらす最大の誘惑に負けそうになる。
もうなにも考えないという誘惑だ。
― シモ―ヌ・ヴェイユ 「ヴェイユの言葉」 (冨原眞弓 編訳)―
今朝の新聞に、朝日新聞とベネッセが共同で行なったという保護者調査の結果が報じられていた。
その中で
豊かな家庭の子供ほど、よりよい教育を受けられるのは?
という質問に対しての回答結果は以下のようなものであるという。
当然だ やむをえない 問題だ 無回答・不明
2004年 3.9% 42.5% 50.8% 2.9%
2008年 3.9% 40.0% 53.3% 2.9%
2012年 6.3% 52.8% 39.1% 1.8%
つまり、
豊かな家庭の子供ほどよりよい教育を受けられることを 「当然だ」「やむを得ない」
と考える保護者は、この4年のうちに5割を超えてしまい、ほとんど6割近くもいるのだという。
数字の変化を見れば、日本は、平等であることを目指す社会から格差のあることを「やむをえない」こととして受け入れていく社会に大きく変化しているらしい。
これはどういうことであろうか!
などと驚いているわたしは、やはり時代が見えていない人間なのであろう。
日本は、さまざまな事柄について、たとえそこに問題があったにしても、とりあえず「やむを得ない」と受け入れていく社会になっているらしい。
なるほど、そう考えればわかることがある。
なぜ、震災から2年がたっても一向に東北の状況が変わらないのか。
あるいは、なぜ原発は廃止すると宣言できないのか。
なぜ、TPPに参加せねばならないのか。
日本人は思うのである。
やむを得ない。
辞書に曰く
望ましくはないがしかたがない。
他にどうすることもできない。
どうやら、日本は、強い者は、自分たちが強くあるために弱いものはその犠牲になって「当然」であると考え、弱い者は、それを深く考えもせず 「やむを得ない」としてあきらめる国になろうとしているらしい。
だが、そこにあるのは、本当はただの思考停止ではないのか。
そして、それは、ゆゆしきこと、ではないのか。
たとえば家族があって、あるいは地域があって、そこになにか災厄がやってきたとき、人というものは、まず自分より弱い者を助けようとするものではないのか。
それは子どもであり女であり年寄りである。
強い男がまず第一に逃げ出し、女子供にのみ苦難を味わわせるなどという家族があろうか。
強い者が踏みとどまり、弱い者を保護し守ることで家族は成り立っている。
強い者とは、究極において、自分より先に他者を生かす義務を持つ者、のことであるはずである。
いや、家族においてはそうかもしれないが、社会というものはそうではない、国というものはそうではない、と言う人々がいる。
強い者こそ国を支え、社会を支えているのだと言う。
だから、強い者こそ守られねばならないのだと。
弱い者は何ものもうみださないのだから、強いものが強くあることによって社会を安定、発展させ、その余慶を弱い者にも及ぼすのがよいのだと言う。
だが、それは本当のことなのか。
映画「レ・ミゼラブル」になぜ人は涙したのか。
あれは、弱い者が弱い者として虐げられている社会に対してノーと言った人々の話だ。
どんな人でも人がましく生きることができる社会を求め、利ではなく義によって行動した人たちの話だ。
「忍びざるの心」(孟子)によって動いた者たちの話だ。
その人たちが最後にバリケードの上で歌う。
そしてその歌う者たちの中に死んでいった者もちゃんとまじって歌う。
そのことが人間というものへの信頼を呼び覚ます讃歌だからこそ人々は泣いたのではなかったか。
安倍晋三首相はあの映画には泣かなかったという。
だからなのだろうか、その首相は原発は継続すると言う。
それが強い産業、強い日本のために必要だからと。
TTPにも参加すると言う。
沖縄の米軍基地も減らさないと言う。
彼は目を開けていても、本当に「泣いている人」の顔が見えないのだ。
死んだ者たちと一緒に歌を歌いたくないのだ。
そして、多くの日本人は安倍首相の話にたぶんは言うのだ。
やむを得ない、と。
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