教育を受ける権利
かつて自分は終日思索したがその結果はしばらくの勉学にも及ばなかった。
かつて自分は爪先き立って遠くを見ようとしたが高いところからの広く見えるのに及ばなかった。
― 『荀子』 (「勉学篇第一」) (金谷治 訳注) ―
当地、なんと今日が公立高校の入学試験である。
よって、このところ、休日、といえば、朝から子どもたちが来て、ずっと勉強をしていた。
むろん、昨日までの連休も例外ではない。
三日続けてみんな弁当持ちでやって来ていた。
私は、まあ、ただ部屋にいただけなのであるが。
それにしても、毎年二月の半ばにも達せぬこの時期に入試があるというのは、いかなることなのであろう。
なぜ、こんな馬鹿げたことがおこなわれるのであろう。
たとえば、去年で言えば、石川県の高校入試は3月7日。
三重、愛知に至っては3月12.13日にそれぞれの入試が行われている。
こちらの方が正常であることは、その間の約一ヶ月をどちらの中学生がまともな授業を学校で受けているかを考えれば、明らかな気がする。
ちなみに、去年、二月中に高校入試を実施した都県は、千葉のほかに、東京・神奈川、それに高知の4つを数えるだけである。
いったい何のために入試をこんなに前倒しで実施するのか、私にはわからないが、いずれ「子どものため」でないことは確かである。
荀子は、学ぶということは人を見晴らしのよい高い場所に連れて行くものだと言っている。
目の前に生い茂るやぶでよく見えなかったものがはっきりと見える場所に立てるようになることなのだという。
子どもたちからそうなるための時間をあえて奪い減らすことに、どんな意味があるのか、私にはわからない。
言うまでもないが、「教育を受ける権利」は、けっして子どもたちから要求される権利ではない。
(むしろ、彼らにとって学校が「お休み」であるくらいいいものはないことは、自分たちの子供時代を思ってもすぐにわかる。)
だからこそ大人たちがそれをちゃんと守らなければならないのだし、「子女に普通教育を受けさせる義務」は、何もその親だけに課せられたものではなく、社会全体がそれを負うべきものではないかと私は思うのだが。
さて、さっきたばこを買いに外に出たら、今日は曇って寒々とした空だけれど、通りかかった大家さんの庭の梅はようやくほころび始めていた。
子どもたち一人一人の蕾も、ちゃんと花咲き、匂いますように!
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