「これ」と「ここ」
最後にぼくが、この本で一番印象に残ったこと。それは一見同じように見える最初と最後の文章の表現のちがい。最初、「これがわたしのおうちです。」としょうかいしていたのに対し、最後には「ここがわたしののおうちです。」と変わっていた。「これ」という物ではなく、「ここ」という場所を指していて、自分の「今」をきちんと受け止めているように感じた。
― 馬上拓己 「『ここがわたしのおうちです」を読んで」 ―
今朝の毎日新聞に読書感想文のコンクールの受賞作品が載っていた。
上に引用した作文を書いた馬上拓己君はいわき市の小学校4年生であるらしい。
感想文はこんなふうに始まる。
「さよなら。また会おうね。」
伝えたいことはたくさんあったはずなのに言葉にならなかったあの日。しん災のえいきょうで、ぼくたちの学校からも何人か転校してしまった。
どうやら「ここがわたしのおうちです」という本は、主人公が引っ越す話であるらしいのだが、拓己君はその話と、転校して行った友だちや、原発が「ばく発」した後の自身の一時避難の生活を重ね合わせて感想文を綴っている。
その中で彼は
「これがわたしのおうちです。」
という言葉と
「ここがわたしのおうちです。」
という言葉は、似ているけれどちがうものだと気づいたと書いている。
すごいなあ、と思った。
グローバリズムなどということが、いかにもよいことのように喧伝されて何年もたつ。
けれど、本当にそうなのか。
たぶんグローバリズムをよしとする人は「これ」で生きる人なのだ。
「これ」がダメなら「あれ」があると考える人々なのだ。
日本がダメなら中国がある。
中国がダメなら、ほら、ミャンマーがあるぞ。
そうやって、次々に拠点を変える。
この株がダメなら、あっちの株があるじゃないか。
ユーロがダメなら、円にしよう。
そうやって、利のあるところをめざす。
けれど、人が生きるとは実は或る場所にとどまるということだ。
その場所を「ここ」だと思って生きるということだ。
人はどこかにとどまらない限り生活を営むことができない。
自分が今ある場所を「ここだ」と思うことは、なにも、父祖伝来の土地や職業にしがみつく、ということではない。
自分の選択した住居なり仕事を「ここ」と思う、ということだ。
「ここ」で生きようと思うことだ。
社会とは実はそういう人たちに形づくられて来たのだ。
自分が住み、自分が暮らス場所だから、住みよく暮らしよくしようとするのだ。
その日限りの仕事ではなく、明日も明後日もその仕事を続けていこうと思うからこそ、よい仕事をしようと思うのだ。
「旅の恥はかき捨て」という言葉がある。
旅にあるとは、自分はそこに住まないから、明日はそこにいないから、どんなみっとむないはずかしいことをやっても責任を取らずにいなくなるということだ。
グローバリズムとは、実は皆がそんな恥知らずの「旅人」になるということではないか。
政治とはいったい誰のためにあるのか。
利を求めて株を売り買いする人のためなのか。
そうではなく、「ここ」に生きる人々の暮らしをよくするためにあるのではないのか。
非正規雇用とは人を「ここ」に生きることから「これ」で生きることに追いやることだ。
そのような人たちが増大している社会とは、そこに住人ではなく「旅人」をふやしている社会だ。
そのような社会がよいものになっていくはずがない。
あの「原発のばく発」で、たくさんの人々が生きている「ここ」をなくしてしまった。
そのことに政治を行っている者たちは、本当に真摯に思いを致しているのだろうか。
私たちの国はいつのまにか「これ」で生きる者たち社会になってしまった。
けれども、私たちはもう一度「ここ」で生きる者たちの社会にしなければならないのではないのか。
拓己君の作文は内閣総理大臣賞をもらったそうだ。
安倍首相はこの作文に込められている大切なことを読みとれるのだろうか。
小学生の作文を読みながら、そんなことを思っていた。
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