発掘
地球が宇宙船地球号なのかを疑うことにする。宇宙船地球号だったとすると、これまで三十億年という長い生命は考えられないではないか。なぜ資源は枯渇しなかったのか。なぜ、汚染は蓄積しなかったのか。
― 槌田敦 『資源物理学入門』 ―
昨日押入れの中の段ボールを整理した。
要らない本を捨てようというのだ。
とまあ、一応名目はそうなのだが、結果はいつも通り、
「おお、こんな本もあった! いやはや、こんなのもあったぜ!!」
みたいなことで終わってしまうことになる。
中には、今本棚に並んでいるのとまったく同じ本が現れたりする。(ひどいのになると二冊も!)
あんな押入れの中、探す手間を考えたら買った方が早いや、と思って買ったのだろうか、それとも、読んだことすら忘れて同じ本を購入したのだろうか。(たぶんは後者)
そんなこんなで呆れながらも、今回、「おお」と思ったのは、もう手元にはないと思っていた安岡章太郎と武田泰淳の本がごっそり出てきたことだったが、いちばん驚いたのは理系の本がやたらに出てきたことだった。
さて、その中に
槌田敦 『資源物理学入門』 (NHKブックス 423)
というのがあって、奥付を見ると
昭和59年6月1日 第6刷発行
とある。
今から30年前、どうやら私が30歳代のはじめのころに読んだ本であるらしい。
「らしい」というのは、見れば、中に傍線などが引かれているからなのだが、そんなにして読んだ本ではあるが、いったい何が書かれていたかは一向に記憶がない。
ところが、何気なくその「はしがき」を読んでみると、
この本で用いる研究手段はエントロピーである。
と、キッパリ書いてあるのである。
だからどうした、と言われても困るのだが、あのですね、実は、私、この「エントロピー」という言葉にヨワイのである。
なぜヨワイのか、について語れば、この通信三日分ほどのいろいろバカバカしい話があるのだが、それは今は措いておく。
ともかくヨワイ。
そして、この「ヨワイ」というのは、石原裕次郎に
♪ 俺はおまえにヨワイんだ ただー、それだけぇー
なんて歌がありましたが、つまりは「気になる」ってことですな。
そして、「気になる」ってのは、要するになにも男女のことに限らず
「オレはあんたのことがわかりたい! いまはよくわからないけど、でも、いつか君のすべてがわかる日がやってくるかも・・・」
って、一方的に思ってしまうってことです。
まあ、私と「エントロピー」の関係もそんなものと思ってもらってよろしい。
永遠の片思い。
というわけで、この片思いの男はその先も読んでしまうわけです。
すると、すぐに
経済学者ボールディングは経済過程をエントロピーで説明した。
「生産は、高いエントロピーをもつ屑を生みだすという代償をまぎれもなく払って低いエントロピーの製品をつくりあげる」
と指摘したのである。
と、断固たる調子で書いてあったりする。
あなた、これ、何のことか、わかりますか?
わかりませんよねぇ。
わからないけど、でも、なんだかスゴイことを言ってるみたいでしょ。
きっとスゴイんです!
なにせ、「エントロピー」ですからね。
私は、というと、霧の向こうにぼんやり見える程度にはわかったような気はする。
まあ、
たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思ひき (近藤芳美)
とでもいったところでしょうか。
でもまあ、はっきりは、わからない。
となると、はっきり、わかりたくなってしまう。
というわけで、本文の方も読み始めてしまったわけです。
で、止まらなくなった。
スゴイ本でした!
なんでこんな本を30年も押入れに入れたままにしてたんだろうと、後悔しました。
傍線を引っ張ってあるところ、たくさんあるのにすっかり忘れていた。
この本の中で槌田氏は、地球というのは、いわゆる「宇宙船地球号」(ちなみに命名者は上の引用に出てくるボールディングらしい)などという「閉じられた系」ではなく、熱エントロピーを宇宙空間に放出する機構を持った「開放系」なのであるということを述べているのですが、そんなこと、私がここで手短に解説してみせる、なんて芸当は、むろんできない。
まあ、こんど遊びに来た時にでも、ホワイトボードで説明するくらいならできますが、みなさんにこの本を読んでもらうのが一番いいかもしれない。
で、そういう地球という「系」の中で、いかに原子力発電というものがバカげたものであるかを、さまざまな視点から槌田氏は述べておられる。
私、つくづく、「ああ」と思ってしまいました。
ほんとにまあ、なんというものを、日本はこの狭い国土の中に気が狂ったようにつくってしまったんだろう、と情けなくなりました。
なおかつ、先日の新聞の世論調査によれば、あのような事故があってすら、原発稼働に賛成する者の数が増えているのだとか。
いったいどういうことなんでしょうか!
加えて、今や自民党は「成長戦略」の《三本の矢》だそうです。
ちょっと長くなりますが、この本の終りあたりにある文章を載せておきます。
ちなみに、これは今から30年前に書かれた本であることも心にとどめながらお読みください。
人間社会は、後期石炭文明と石油文明のこの100年間、大きな遷移の時代であった。これは若い遷移でないことを強調する必要がある。若い遷移というのは、いずれ、何らかの定常に到達することが予想されるような遷移である。
だが、それ(何らかの定常に到達すること)は、絶望的である。石炭文明の時代は、まだ、なんとかなるかに見えた。しかし、石油文明に入ってからはどうにもならない。石油文明初期のころ、「幸福になるために経済成長しよう」というスローガンだった。だが、現在、「不幸にならないために成長しよう」である。いつのまにか、スローガンが入れ替わってしまったことに気づくだろう。
このすり替えは、明らかに詭弁である。しかし、これをいっている本人さえこの詭弁に気づいていない。そして「もしも、成長を止めたら失業だぞ」と脅かす。しかし、さらに成長したら失業の恐怖がなくなるかどうかについては、誰も黙っている。
何度も述べているように、人間社会は、地球の一部分である。したがって、地球の能力以上のことを人間社会には実行する能力がない。もしも、そのことに気づかず、人間社会を大きくしたとすると、ある日突然破局になる。そのような例は、他の生物の歴史によく見られることである。
絶望しつつ絶望しないようにしようと思っています。
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