梅
梅
梅を見にきたらば
まだ少ししかさいてゐず
こまかい枝がうすうす光つてゐた
― 八木重吉 「梅」 (『貧しき信徒』)―
今年の梅は遅い。
この三、四日はあたたかかったのだけれど、昨日、家賃を納めに行った時、いつも一月の終りには咲いている大家さんの庭の梅のつぼみは、まだ固いままだった。
今年の冬はやっぱり寒かったのだ。
さて、八木重吉の、たとえば今日引用したようなこんな詩のどこがいいのかと言われると、うまくは言えないのだけれど、やっぱり、これはこれでいいのだと私は思ってしまう。
そう思わせるものが彼の詩にあるのは、たとえば新潮社の「日本詩人全集 18 中勘助・八木重吉・田中冬二」の解説の中で、草野新平が書いているこんなふうな理由によるだろう。
重吉の詩集には「詩」と「感想」が、言わば玉石入りまじっているが、その「感想」すらも美しいのは、真摯清純な精神が貫かれているからである。
たぶん、これ以上何も付け加えることもない。
自分が詩人であることより、善き人たらんとしたその生き方が、言葉の奥から素直にこちらに響いてくるのだ。
ところで「貧しき信徒」という詩集には同じく「梅」と題された詩がもう一つ載っている。
そして、こちらの方が心平の言うところの「玉」の方なのだ。
ちよっと、身を入れて読んでみて下さい。
(と、言うほど難しい詩でもないのですが)
梅
眼がさめたやうに
梅にも梅自身の気持がわかつて来て
そう思つているうちに花が咲いたのだらう
そして
寒い朝霜がでるように
梅自らの気持がそのまま香にもなるのだらう
そうなのだ、きっと、梅ってやつはみんな(あるいは花ってやつはみんな)そうやって咲くのだなあ、と思ってしまう。
「なんだか、よくわからないけど、ぼくは花を咲かせたくなったぞぉ」
みたいなことを思っているうちに、気が付いたら、蕾をつけ花を咲かせているのだ。
内側から、湧いて来た気持が、何の無理をすることなしに形になって、それが美しい。
だから、よい香もする。
人も、本当はそんなふうに自分を咲かすことができたらどんなにいいんだろう。
そう思う。
そして、重吉の詩がぼくらによいものと思えるのは、彼の書いた詩もまた、梅の木が花をつけるみたいにできてるせいなのだろうと思う。
ところで、重吉と同じことなんだろうか、それともちがうんだろうか、道元さんは梅の花のことをこんなふうに言っている。
槎々(ささ)たり牙々(がが)たり老梅樹
忽ち開花す一花両花
三四五花無数花
清(せい)誇るべからず
香(こう)誇るべからず
散じては春容を作りて草木を吹く
《枝が入りまじっているぞ、尖っているぞ、年とった梅の樹
でも、そいつは時節がくると一つ二つと花を開くのだ
開いたと思えば、つづけて三つ、四つ、五つ、気がつけば無数の花だ
その清らかさを誇ろうなんて思ってはいない
そのよい香りを威張ろうなんてことも思わない
(ただ、咲きたくなって咲いたのだ)
そして花が散るとき、「ほら、今度はおまえたちの花つける春だぜ」と
春風となって、ほかの草木をゆらしてやるだけなのだ》
(拙訳)
もう十何年も昔、『正法眼蔵』の「第五十三・梅花」の巻を初めて読んだとき、ここに書かれていることは、実は重吉の「梅」の詩のことじゃないのかって思ったのだが、いいかげんな私が読んでいるのだ、むろんほんとうにそうなのかどうかわからない。
けれど、重吉の、自分が持っている「自分」という余計なものを捨てよう捨てようとして、それによってキリスト教徒たらんとしている生き方が、はしなくも道元が言う「瞿曇(くどん)の眼睛」(お釈迦さんの目の玉)と重なるものになっているのではと思ったりしている。
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