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親を泣かす

 

 普通、小学校じゃ徒手体操ぐらいしかやらなかったのを、馬跳びをやらせたり、こんな木馬ですね、それから鉄棒にぶら下がったり、そんなことをやらされまして、これは私にとっちゃ、たいへん苦手で、鉄棒にぶら下がることはできるんですけれども、そこから後は全然できない。懸垂なんていっこう上がらない。それからうまく飛びつくのがたいへんこわく、馬を跳ばされても、よく跳べないんで半分べそをかきながらやる。ただその先生にほめられたことがあるんです。それは平安神宮の回りを一周してくるかけっこ、まあマラソンとでもいいますか、それをやらされた時に、ついに落伍しないで帰ってきたもんだから先生にほめられた。これは当たり前なんで、落伍する方がおかしいんですけれども。当たり前のことをしても、ほめられると子供ってのはうれしいもんで、まあ、お前は走るのは遅いけれどもよくやったという。大学の先生でも時々、学生をほめてやると、大きな学生でも喜びますからね。

 

  ― 朝永振一郎 「京都と私の少年時代」 (『科学者の自由な楽園』)―

 

 

 

 「昨日、かちゃん、泣かせた」
 部屋に入って来るなり三年生のアキラ君が言うのである。
 「どした」
 「うちで勉強した」
 それは泣くはずである。
 『あんたが、家で勉強するなんて!』

 とはいえ、実は当地の公立高校の入試まであと三週間しかないのである。
 ほんとうは彼の母親は、今頃になってやっと家で勉強しはじめた息子の能天気ぶりを泣いたのかもしれない。
 しかも、やったのはたった1時間。
 しかし、むろん、やらないよりはいい。
 エライものである。
 私も、大いにほめておく。
 「今日も、かあちゃん、泣かせてやれや」
 「マカセナサイ!」
 そう言って帰ったのが昨日である。

 で、今日聞いたら
 「ダメ。二日目は泣かない」
 アキラ君が言うのである。
 「慣れちゃって」
 まあ、それはそうであろう。
 息子が机に向かうたびに泣いていてはかあちゃんの体が持たない。
 それでも、彼、ちゃんと勉強はしたらしい。
 実にエライものだ。
 もちろん、私はほめる。
 
 中学生なんて、もちろん今の自分が何者であるかなんてちっともわかってはいない。
 そして将来どんな大人になっているかなんて、本人も周りの人間にもわかりはしない。
 人は変わるし、ましてや男の子なんてすくなくとも高校に入れば今とまったくちがうことを考えてる人間になる。
 そういうものである。(もし、そうでなければそれこそむしろたいへんだ)

 というわけで、今日のどうも長すぎる引用だが、ノーベル物理学賞をもらった朝永振一郎は、科学とは何の関係もない小学校時代のマラソンの完走をほめられたことを覚えているという。
 けれど、そのことが彼の業績にまったく関係がなかったとは言い切れないような気もする。
 このささいなほめ言葉がどこかで彼の背中を押してくれるものだったのではあるまいか。
 だからこそ、彼はそのことを覚えていた。

 アキラ君がノーベル賞をもらう人になるかどうかはわからないけれど、やっぱり子どもはほめてあげなければならない。
 受験へのこれから残り三週間を頑張ったことがどこかで彼の力になることもあるはずなのだから。
 単純だけれど、どうやらそういうふうに人間はできているらしい。

 ところで、アキラ君のお母さんの出身地は石川県珠洲市なんだとか。


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