春は…早起き
猫にも欲がある。欲は往々にして満たされないことが多い。そういうとき猫は苦しまないのか、というとちっとも苦しまない。
というのは猫は、嫌なことを、なかったことにする、という秘法を会得しているからである。(中略)
やり方は実に簡単で、嫌なことがあった場所からちょらちょら駆けだし、数メートル行ったところで立ち止まって背中を舐め、手足を舐める。
ただそれだけで猫のなかではたったいま起こったことがなかったことになってしまうのである。
- 町田 康 『猫にかまけて』 -
だんだん、夜が明けるのが早くなってきました。
こんな時はみなさんの中には、布団の中でぐずぐずしながら
春眠 暁を覚えず
なんて中学校で習った漢詩の一節なんかも思い出したりしてるかもしれない。
勉強してなかったみたいに見えて、私って、実はなかなか教養あるじゃん!むにゃむにゅ・・・。
なんて思いながら。
でもね、猫と同居しているとそうはいかない。
ましてそれが、うちのヤギコのような性悪猫だと全然そういうわけにはいかない。
春は、断然、暁を覚えてしまうのである。(夏はもっと悲惨だけど。)
なぜなら、起こされちゃうのである。
にゃーお
鳴くのである。
彼女は
起きないのぉ?
と私に言っているのである。まだ薄暗いのに。
私はもちろん起きない。だって、 春眠 暁を覚えず ですから。
私が知らん顔で寝ていると彼女はまた鳴くのである。
にゃーご
この二度目の場合、すでに鳴き声の「に」の字にも濁点が入っている感じになっている。
起きる気ないの!起きなさいよぉ!
てな感じである。少々ならぬイラダチがそこにこもっている。大変耳障りである。
私は当然のように寝返りを打って彼女に背を向ける。
すると、彼女ももちろん私の顔の向いた方に移動してくる。そして、なおも、二声三声この調子で鳴いてみる。
そして、私が一向起きる気がないと見るや、ついに彼女、実力行使に及ぶことになる。
そろりと右前脚を伸ばして布団にもぐりこんでいる私の頬のあたりを探り当てると軽くひっかくのである。
イタクはない。
イタクはないがイヤである。
私は彼女の手の侵入を防ぐべく頭部にかかった布団を固くする。
すると、いったん静かになる。
しかし、だからといって、そのまま私はまた夢の世界へ・・・などという風に世の中は優しくできていない。
寝惚けた敵を一旦安心させておいて、彼女はすでに忍び足で次の作戦に向かっているのである。すなわち、彼女は布団の裾の方へと廻り込んでいるのである。
ふふふ、あなた、頭隠して尻隠さずね
と思っているかどうか、孫子だか楠正成だか知らないが、敵の手薄を衝くのが兵法の王道である。
彼女は音もなく裾から布団にもぐりこんでくるのである。そして、もぐりこんだ彼女が何をするか、と言うと、私の足の指を噛むのである.
イタイです、これは、はっきり言って。
んなの反則でしょ!
などと言っても通じない。
んだよぉ!
私、起きてしまうのである。怒りにかられて。
言っておきますが、外はいまだ薄明です。
で、起き上がった私は、思わず膝を正し、ヤギコを正面に見据えて言うわけです。
あなたは、私に何をしてもらいたいんですか。
言葉が丁寧ですね。丁寧です。
ここで私が、わざわざ丁寧語を使うのは、もちろん、私のそのときの心境と彼女の浮かれ加減との間にある心理的距離感を相手にわからせるためです。
でもね、わかってもらえません。
猫に小判 猫に丁寧語。
無駄です。一向通じません。
相手はただ にゃあとした顔 をして私を見上げているだけです。
そして、やおら私の膝に顔を擦りつけてくるんです。
すりすり。
何がすりすりですか、人を起こしておいて!
でもね、私、わかってるんです。
この人、もう、自分がなぜ私を起こしたかなんてこと、忘れてるんです。マチガイナク。
求めない
何年か前にこんな本を出した人がいましたが、何も『老子』なんて読まなくても、猫がそばにいればみんなそうなります。
求めない。
そうなります。
相手に求めても無駄、ですもん。
てなわけで、私も猫のまねをして、無理にに起こされたという 「嫌なことを、なかったこと」 にします。
まさか、私の場合背中を舐めるなんて高等なことはできませんから、こりこり豆を挽いてコーヒーを淹れるわけですが、まあ、みなさんのご想像の通り、私がカップから最初の一口を啜る頃には、ヤギコさんはまるで自分の大切な義務を果たし終えたかのように椅子の上に再びまあるくなってねむっているのです。
どうよ!
ほんま、この猫、性悪な猫でごぜえますだ。
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