自他
民衆は同じ神の声にしたがって行動し、厳密な意味で他人というものを持たなかった。ところが混乱と流民の時代が訪れると、彼らは同じ人間の姿をしながら予測不可能な行動をする他人を知り、初めて人間には外から見えぬ内面があるらしいと、気がつくことになった。
― 山崎正和 『世界文明史の試み』 ―
小さな子どもたちにこんなビデオを見せる。
小学生くらいのおねえさんとおにいさんがテーブルにすわっている。
二人でもらったケーキを
「あとでたべよう」
と言って戸棚にしまう。
二人は部屋を出る。
やがて、おねえさんだけがもどってきて
「これやっぱり、れいぞうこにいれておこうっと」
と言って、二人のケーキをれいぞうこにしまう。
そこにおにいさんが
「しまっておいたケーキをたべようっと」
と言ってかえって来る。
・・・・・というところで、ビデオが止まる。
先生がきく
「おにいさんは、どこをさがすかな」
驚いたことに、4歳児たちは皆
「れーぞーこぉ!」
と答えるのだ。
どいや、どいや。
同じビデオを5歳児に見せて、同じ質問をすると、五歳児たちは口をそろえて
「とだなぁ!」
と言う。
「え、だって、ケーキはれいぞうこに入ってるんだよ」
と先生が言うと
「だって、おにいさん、れいぞうこに入れるの見てないもん!」
と生意気に解説する。
そのとおりだ。
君は正しい。
はてさて、何であろうか、これは?
と思っていると、四歳児ではまだ自他の違いがわからないのだという。
自分が知っていることは、登場人物たちも知っていると思うらしい。
でも、五歳になると、きっぱりそうじゃないことを理解するらしい。
すごいなあ。
十年ほど前に、なんとなくつけた放送大学の講義でやっていたビデオである。
子供を持たぬ私は、大いに呆れ、かつ感心したのだが、そんなことはすっかり忘れていた。
にもかかわらず、そんなことを思い出したのは、読んでいた山崎正和氏の「世界文明史の試み」という本の中に、今日引用した言葉に出くわしたからだ。
山崎氏はこの本の中でいったい人類はいつから「意識」などというものを持ちはじめたのか、についていろいろ考察が述べている。
まあ、私なんぞは頭が杜撰にできているから、人間なんだから、アウストラロピテクスも、北京原人も「意識」くらい持っていたんだろうと思っていた。
と言うより、そんなこと考えもしなかったんだが、やっぱり考える人は考えるんだなあ。
たしかに、人というものがその出現の最初から今われわれが持っているような「意識」なんてものを持っていた、などというのは思いこみだな。
四歳児と五歳児を截然と分けるものがいったい何であるのか、よくはわからないけれど、それと同じくらい、あるいはそれ以上に先史以前の人たちと私たちはまるでちがうふうに世界を見ていたんだろうな。
山崎氏は「意識」の出現は文字の発明による、という話なんだが、ともかくえらくおもしろい本である。(まだ読了してません)
ところで、どうでもいいことですが、引用の文にある「混乱と流民」をもたらしたものは、《テラ島》の大噴火と陥没だったそうです。
だからどうした、ってことではないんですが、まあ《テラ》とあるだけで、私、すぐに反応してしまうもので・・・。
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