わからない
他人に害を加えることは、他人から何かを受けとろうとすることだ。
何をか。
害を加えたときに何を得たのか。
自分が大きくなったのだ。
自分が広くなったのだ。
― シモ―ヌ・ヴェイユ 「重力と恩寵」 (田辺保 訳)―
両手を広げて「とおせんぼ」をする子どもというのは、いったい何を考えているのか。
たぶん「ここからは自分の領分だ」と宣言してみせているのだが、実はそこは多くの場合天下の公道で、誰とて通れぬはずもない場所なのだ。
だが彼はこう言いたいのだ。
私がここの王様だ。
私に敬意を示せ。
もちろん、子供でもないのにそんなことをしているのは相当バカな男ではあるのだが、大人であっても、それは起きる。
そして、その宣言が相手からも承認されることが続くと、その場では自分が王様であることが自分の中でもまるであたりまえのことのように思われてくる。
人がそのような場所に身を置くとき、本来多様な要素でできあがっている世の中の物事の次元の数が極端に減ってくることになる。
そして最悪の場合、物事はたった二つの側面しか持たなくなる。
「善」と「悪」。
世界は単純な二元論になる。
この場合「善」とは、自分の意見に同意する者のことであり、「その場所における自分の〈王位〉」に同意する者のことである。
そして「悪」とは自分に逆らう者、あるいは思い通りにならない者のことを指すことになる。
それらは罰してしかるべきである。
けれどもこのような「善」「悪」に自らの身を置くことは、実は悪の中にいることである。
ヒトラーやスターリンといった独裁者を例にとるまでもない。
世に報じられる犯罪のほとんどすべては、彼にとっての世界が単純な二元論によってしか見えなくなった者によって犯されている。
と言うより、自分が二元的な世界に身を置いてしまっていることに気づかぬこと自体がすでに人においては罪なのだろう。
何の話をしているかと言えば、大阪の自殺した高校生にビンタをくらわしていたという部活の顧問の話である。
実は私にはなんだかよくわからないのだ。
このごろはほとんどニュースも見ないので詳しいことは知らないが、なんでも部活の顧問がビンタを日常的にくらわしていたそうである。
しかも、そのことを、親も知っていたそうである。
私には、いったいそれがどういうことなのかさっぱりわからない。
そして、今日の新聞によれば、親が子供から聞いたビンタの回数と、教師側の回数がちがっている、といって問題になっているらしい。
私には、まったくそのことのどこが問題なのかがわからない。
そんなことは何の問題もない。
問題なのは子供にビンタを顧問がくらわしていることを知っていながら、そのような部活に子供を入れておくことに「同意」していた親のことだ。
そんな部活は、さっさとやめさせればいいのだ。
もちろん顧問の教師はとんでもない男だったろう。
けれども、親たちが、そんな部活は息子にやめさせますと言えば、そんなことが日常的に行われるはずもないではないか。
誰が、あの部活の顧問のバスケット部における〈王位〉を承認していたのか。
それは、学校であり、親である。
たかが部活である。
たかがスポーツである。
そんなものにシャカリキになるのは実に馬鹿げている。
中学生あたりから、部活の、朝練、などというものをやっておるなんて、キチガイ沙汰だ、と私なんかは思うんだが、親たちはそうは思わないらしい。
「厳しくシゴイテやって下さい!」
などと、半ば本気で思っているらしい。
根性、なんて言葉、キモチワルイナア、と誰も思わぬらしい国である。
こんなことは起こるべくして起こる。
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