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古鏡

 

             水仙や古鏡の如く花をかゝぐ

                                                                        松本たかし 

 

  

  

 

 

 年を迎えるべくきれいに埃をぬぐわれた机に水仙の花があり、部屋にひかえめな芳香がある。
 葉も茎も、凛と直に伸びたその上に、水仙は花をつけている。

 松本たかしはその姿を「古鏡の如く花をかゝぐ」とうたった。
 言われてみれば、どこかおさなさびたその花の形は、たしかに銅鏡のような、と見えてくる。
 けれども、句は「古鏡の如き」ではなく、「古鏡の如く」である。
 「古鏡のような」花をかかげている、というのではないのである。
 花を「まるで古鏡のように」かかげている、というのである。
 

 鏡とは「影見」がその語源という。
 ものの姿(影)をそこに映し見る道具である。
 鏡は、その正面に立てば、そこに映るものは自らの姿であり、斜に立てば、そこにはじかに自分の目には映らぬ傍らや背後のものが自分の立場とは異なる視野で映しだされる。
 人は鏡を見ることによって自らの姿と位置を正そうとする。
 また「かがみ」は、「鏡」であるとともに、それを手本として身を正すべき「鑑」でもあろう。

 もし、私も今、机にある水仙が「まるで古鏡のように花をかかげている」と見るなら、その花は私に「古鏡」となるだろう。
 そうであるなら、私は、水仙の花によって私を正さなければならない。
  

 道元の『正法眼蔵』のその第十九に「古鏡」という章がある。
 無論、難解。
 よくわたくしなんぞの解するところにはあらず、ただ、茫漠とその言うておることの方角が見ゆるのみ、である。
 その章の終り近くに、道元はこんなことを書いている。 

 

 いまの人も、いまの塼(せん)を拈(ねん)じてこゝろみるべし、さだめて鏡とならん。
 塼もし鏡とならずは、人ほとけになるべからず。
 塼を泥団(でいとん)なりとかろしめば、人も泥団なりとかろからん。

  (今の人も今目の前の瓦を持って磨いて試みることである、きっと鏡になるだろう。
   瓦がもし鏡とならないならば、人が仏になるはずがない。
   瓦を泥の固まりではないかと軽蔑するなら、人も泥の固まりに過ぎない。)
                                    ―
 石井恭二 訳 ―

 

 年の瀬、きれいに埃を拭われた机に水仙の花があり、部屋に芳香がある。
  「もうすこしいい選手になれたかもね」
 先日はよき人のよき言葉も聞いた。
 いづれも私の「鏡」であり「鑑」である。
 来年は、たとえ泥団なりとも、わが塼を磨いて鏡にすべきよい年にせねばと思う。

 


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