よい小説
「新品のセーターの匂いとか、上等な革のジャケットの匂い、石焼き芋の匂い。こういうものが乾いたひんやりした空気のなかにいっぱい漂ってくるんですよ、町を歩いていると。
みんなバカにするけど、クリスマスの飾りつけだっていいものです。空気が濁ってないから、夜になれば遠くの光もきれいに見えるし。東京でいちばんいい季節は、なんと言っても晩秋から冬にかけてです」
― 松家仁之 「火山のふもとで」 ―
昼、中学三年生たちが帰ると静かになる。
金沢の人たちには申し訳ないが今日も快晴。
日が射す部屋の中は、冬でも温室の中のようで、すこぶる暖かい。
もっとも、それも2時半を過ぎると、部屋の温度は急に下がる。
外は明るいのだが、低い冬の太陽が向かいの屋根に隠れてしまうのだ。
そんな午後を、椅子に座って本を読んでいた。
途中から電気もつけ、読み終わった時、外はすっかり暗くなっていた。
世の中には、おもしろい小説、あるいは、すごい小説、なんてのもあるのだが、そういうのとは別に、よい小説、というものがたしかにあって、なかなかそういうものに出会うことはないのだが、今日はそれを読んだ。
松家仁之 「火山のふもとで」 (新潮社 1900円)
書評通りにすぐれた小説なんてなかなかあるものではないのだが、これはハズレではなかった。
この何のてらいもない表題どおり、この小説に気負った言葉を吐いたり、突拍子もない行動に出たりする人物は一人も出てこない。
殺人事件も、事故も、「トラウマ」などという出来あいのものなども何も出てこない。
気取った哲学談義も、高尚な芸術論もない。
出てくるのは皆、あたりまえの、まっとうな人たちであり、その人たちのごく日常的な会話だ。
にもかかわらず、読みだせば、いつのまにかすっかり小説の世界に入り込み、ページを繰るごとに、自分が今小説を読む愉しさの中にいることをうれしく思うのだ。
これは、なかなかただごとではない。
筋を語れば何もなくなってしまうものを「小説」と呼んで平気でいる作家や読者がいる。
それに口当たりのいい処世訓や「愛の勝利」めいたものをつけたして、「感動しろ」といい、「感動した」と口走っている。
この小説はたとえばここで筋を語っても、びくともしない。
何もこわれない。
それは、この小説の筋がつまらないということではもちろんない。
そうではなくて、それはこの小説が豊かであるということで、小説(や映画)の「筋」というものを人々は多く誤解しているのだ。
筋があって登場人物がいるのだと思っている。
そうではなく、人があって筋があるのだ。
細部があって全体があるのだ。
たとえば、どこにも魅力のない奴の話を、人は聞こうと思うだろうか。
逆にその人が魅力的であるなら、どんな些事でも聴きたくなるものだ。
小説の「筋」というものもまたそのようなものではないか。
まず、そこに登場する人物が魅力的であるからこそ、私たちは先を読みたくなるのではないか。
この小説が、よい小説、なのはそこに出てくる人々が皆魅力的だからだ。
その細部が丁寧に書かれているからだ。
だからこそ、ページを繰るのがたのしいのだ。
あまりよい年ともいえなかった一年だけれど、そんな一年の終りの静かな午後、こんなよい小説を読むことができて、それだけでも、今年はよかった、とさえ思えてきた。
もしよかったら、お読みください。
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