茫然とする
世界は自分の意志からの独立である。
― ウィトゲンシュタイン 「論理哲学論考」 (野矢茂樹 訳) ―
ボーゼン、などという言葉を人はわりかしへーゼンと使うが、実は、人が、
本当にボーゼンとする
なんてことは、なかなかできることではないのである。
でもね、私、ボーゼンとしてしまったのです、昨日。
このボーゼン、漢字で書けば「呆然」ではなく「茫然」。
この二つ、ほんとはどうちがうのか、よくわからないのだけれど、
「呆れかえる」
というより、なんというか、
「気が付いたら、自分がだだっ広い草原のまん中辺りに一人で立ってた!」
っていうような感じ、とでもいいましょうか・・・。
とはいえ、ボーゼンとして私が立っていたのは、実はそんな広い場所ではない。
むしろ狭小と言ふべき場所です。
あのですね、私、こないだから『河原ノ者・非人・秀吉』という本を読んでいました。
中にはたくさんの和製漢文で綴られた古文書の史料がそのまま引用されてるので、読みやすい本とは言えないのだけれど、いやはや、読めば読むほど知らぬことばかりで、実におもしろい。
いやあ、ほんまにわしはなーんも知らん男やったんやなあ!!
と思い思いしながら、昨日の昼過ぎついに700ページに余るこの本を読み終えました。
読み終えた私
学者というものはほんまにエライものじゃ!
としみじみ思いながらも、分厚い本から解放されてすっかりリラックスして、胡坐をかいてコーヒー豆をこりこり挽き、さあて、お湯でも沸かすかとヤカンを手に立ちあがった。
立ちあがったんですが、あなた、気が付いたら私、どこにいたと思います?
あの、ですね、私、トイレ、にいました。
右手にヤカンをぶら下げて。
あり得ないでしょ?
あり得ないことです。
何用あって月世界。
何用あってトイレにヤカン。
宇宙飛行士たちの「ミッション」とか称しているものより意味不明です。
途中は何の記憶もない。
すくなくとも、そのとき唐突なる尿意や便意を催したという記憶はない。
なのに、湯を沸かしに立ったはずの自分が、いきなり、トイレでヤカンをぶら下げて立ってるんです。
しかも、御丁寧にトイレのドアはちゃんと閉められている。
というか、ドアを後ろ手にしめた感触はまだ左手に残っている。
で、まっすぐ前を向き、ふと目を落とすと、右手にヤカン。
どうします?
こういうとき、あなた、どんな顔します?
まあ、こんなこと、なったことがない人ばかりだろうから、お教えしますが、こんなとき、人は表情を失くします。
別に私のトイレに鏡があるわけじゃないから、見たわけじゃない。
見たわけじゃないが、でも、わかる。
茫然。
これは顔から表情が消えることをいうんです。(たぶん)
呆然、ではない。
呆れてるひまもない。
なにせ、その状況の意味が、その行動を起した本人にもさっぱりわからんのです。
てれ笑いも浮かばない。
私、厳しい顔してトイレを出ました。
厳しい顔。
でも、その右手には、ヤカン。
うーん。
どうやら、私にとって、もはや自分の身体すら、私の意志から独立して「世界」の方へと向かっているらしい。
どうやら、年を取るということは、そんなふうに段々自分が自分であることをやめて「世界」に溶け込んで行ってしまうことなのかもしれない。
スゴイことだと言えばスゴイことだが、なんともはや、コマッタことである。
(追伸:「呆然」の「呆」はたぶん「あきれる」の意味とともに、「ほうける」・「ぼける」方の意味も入った「呆」なんでしょうね、ほんとは)
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