何処から何処へ
高い、大きな、暗い土手が、何処から何処へ行くのか解
らない、静かに、冷たく、夜の中を走ってゐる。その土手の
下に、小屋掛 けの一ぜんめし屋が一軒あった。カンテラの
光りが土手の黒い腹にうるんだ様な暈(かさ)を浮かしてゐ
る。私は、一ぜんめし屋の白ら白らした腰掛に、腰を賭けて
ゐた。何も食つてはゐなかった。ただ何となく、人のなつか
しさが身に沁むやうな心持でゐた。
― 内田百閒 「冥途」 ―
内田百閒の「冥途」は上に引用したような文に始まる原稿用紙5枚ほどの小説だ。
その一ぜんめし屋には私のほかにとなりの席に座った四五人連れの客がいる。
その会話が私の耳にぼんやり聞こえてくる。
ふと、私は、中の一人が自分のことを話しているように思う。
それが誰だか、顔を見分けようと思って振り向いて見るが、ぼんやりしてわからない。
私はなぜだか、源の解らない悲しみに涙が出てくる。
やがて、話は、子どもの頃の私と父親だけしか知らない蜂の話になる。
私は、その声の主が自分の父親なのだとわかる。
私は泣きながら父親を呼ぶ。
けれども私の声は相手に届かない。
やがて、その客たちは立ち上がり店を出ていく。
私もあとを追おうとするが、もうそこいらに彼らはいない。
彼らは「月も星も見えない、空明りもない暗闇の中」でそこだけ「ぼうつと薄白い明かりが流れている」土手の上にいつの間にか上がっている。
私は、もう一度父親を見ようとするが「もう四五人の姿がうるんだ様に溶け合ってゐて」、どれが父親だか解らない。
私は泣き、ながい間泣き、それから暗い畑の道へ帰って来る。
筋(と言っていいのかはわからないが)を書いてみれば、ただそんな話なのだが、実際読んでみれば、それがどんなにふしぎな小説かわかる。
なんと言えばいいのだろう。
普通、人は夢の話をするとき、その夢の筋を語ろうとするのに、百閒は自分が見た「夢の話」を書くというより、むしろ「夢」というものが持つ、不気味さや不安、あるいは、そのなつかしさ、といったものそのもの、の方を書こうとしたといえばいいのだろうか。
話は、どこまでもつかまえどころのない夢の話なのに、その感触が妙にリアルなのだ。
読んでいると、自分は今ちゃんと起きているはずなのに、まるで眠っているときのように「夢そのもの」にゾロリと素手で触れたような気がしてくるのだ。
そんな感覚は、たとえば、今日引用した冒頭の
高い、大きな、暗い土手が、何処から何処へ行くのか解らない、静かに、冷たく、夜の中を走ってゐる。
という文から始まっている。
この文の中の「何処から何処へ行くのか解らない」は、一見「暗い土手」の述語であるように見える。
しかし、「何処から何処へ行くのか解らない」の後ろには「。」ではなく「、」が付いている。
そうなると、これは「静かに、冷たく」という「走っている」にかかる連用修飾語をはさんで、その後の「夜」にかかる連体修飾語ということになる。
だから、普通の国語教師なら、このような文章は
高い、大きな、暗い土手が、何処から何処へ行くのか解らない夜の中を、静かに、冷たく、走ってゐる。
とでも書き直させるはずだ。
ところが、彼はあえて「静かに、冷たく」を、その間にはさみこむことで、「何処から何処へ行くのか解らない」を宙ぶらりんにして、それが、それこそ「何処から何処へ」かかるのか「解らない」文章にしている。
それは、ある事柄が、現実の文脈を幾重にも超えて、思いもかけぬところに着地する「夢」というものの「文法」を、見事につかまえて、私たちを一挙に、わけのわからない夢の世界へと引き込む役割を果たしている。
このような、文章で織られた物語だからこそ、この小説を何度読んでも、ふわふわと、不確かな地面の上を歩いているような不思議な思いに私はとらわれるのかもしれない。
最後の
それから土手を後にして、暗い畑の道へ帰つて来た。
という終わり方も、なんとも言いようのないものだ。
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