ロドス
男らしくない、といっていつも都市(まち)の人たちに非難された五種競技者が、或るとき他の都市へ旅に出ました。
しばらくして再び帰ってくると、法螺を吹いて、他の都市都市でもしばしば堂々と競技をやって、ロドスではオリンピック選手たちの誰一人及び得ないほどの跳躍をやったと言いました。
そして、もしいつか諸君があちらに行くことがあったら、その場に居あわせた人々がその証人になってくれるだろうと附け加えました。
しかし、そこに居た人々のうちの一人が口を切って、彼に言いました。
「だが、君、もしそれがほんとうなら、何も君は証人を必要とすまい。
ここにロドスがある。
さあ、跳んで見給え。」
― 『イソップ寓話集』 (51) (山本光雄 訳)―
むかし、大学の構内に
《跳べ、ここがロードス島だ!》
というポスターがそこいらじゅうに貼ってあった。
なんだかカッコイイ言葉だが、意味は、とんとわからぬ。
「ロードス島」とはどこの島であるのか、なんで、ここがそのロードス島になるのか、皆目見当もつかない。
私の見るところ、どうも、そのポスターは、国鉄の「動労」(という労働組合)のストライキに関するもののようだったので
「あのロードス島というのは《どーろースト》のダジャレなのか」
と、隣を歩いていた学部の先輩のH氏に聞いたら、大笑いされて、それは「資本論」の中にマルクスが書いてる言葉で、なんでもイソップ物語から引っ張って来たものだと教えられた。
まことに
すこしのことにも、先達はあらまほしきことなり。 (『徒然草』 52段)
でございますな。
なんでも知っている先輩、というものは、ちゃんといるものである。
まあ、当然のように私、「資本論」の方は敬して遠ざけ、「イソップ」の方を当たりました。
内容は、上記の引用ですべて。
題は「駄法螺吹き」。
文庫本で1ページ足らず。
もちろん、「イソップ」ですから、終りに教訓が付いている。
この話は、事実によって証明することの手っとり早いものについては、言葉は凡て余計なものである、ということを明らかにしています。
うーん、そうなの?
そういう意味なの?
たぶん、マルクスさんはそんな意味で
ここで跳べ
なんて書いていないと思うんだが。
そして、昨日の大石君も。
今自分が立っている場所がどこであれ、それがいつでも自分にとっての「ロードス島」である、と思えない者は、しょせん「駄法螺吹き」に過ぎないということなんだろうと思うのだが、どんなもんでしょう。
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