たりない
敬意とは、「めんどうなことをしなさい」である。
― パスカル 『パンセ』 (317) (前田陽一・由木康 訳) ―
土曜日の日から、どういうわけかPCのメール機能が働くなってしまっていた。
その日来ていたトミー(朋隆)たちが写真をその場で一斉に送ってくれたとたんに、受信しなくなってしまったのだ。
「メールを送った奴の中に、誰かわしへの《愛》が足りないのがいるんじゃないの!」
なんて、三人を厳しく責めたりしてたけれど、足りないのは言うまでもなく私のパソコンの知識である。
何がどうなっているのか、さっぱりわからない。
トミーもいろいろやってくれたけれど、なにせ彼もその時点で酔ってますからねえ、全然回復しない。
とまあ、こうなれば、呼ぶのは俊ちゃん。
決まっている!
で、彼、昨日、忙しい仕事の合間を縫って来てくれた。
でも、その俊ちゃんをしても修復には1時間以上かかってしまった。
むろん私はその間、たーだ横にいるだけ。
役立たず。
とはいえ、さまざまな試行錯誤を繰り返しつつ故障の原因に迫り、じりじりと問題解決に向かっていく俊ちゃんを見ながら、私、気づいた。
そうか、《敬意》だわ、私に足りないのは!
引用の文でパスカルが言っている《敬意》は、人に対するそれなんだけれど、「めんどうなことをしなさい」という命令は、なにも人に対する《敬意》の定義としてだけ適用されるわけではない。
「めんどうなこと」をしようとしないのは、「人」のみならず、その「もの」や「こと」に対する《敬意》が足りないということなのだ。
日々の暮らしの中では「めんどうなこと」が次々生じる。
ずぼらな私にとって、食器を洗ったり、部屋を掃除したり・・・、ということがすでに「めんどう」である。
けれども、それは、実は食器や部屋に対する《敬意》が足りないということなのではないだろうか。
食器や部屋なんかに対して、何がかなしくて《敬意》なんてものを持たねばならないんだ、という話にもなりそうだけれど、実はそれは、とりもなおさず、それらを使いその場所で暮らす自分の生活や自分の人生に対する《敬意》を失くしているということの表われなのだ。
そう思う。
世の中はあきれるほど便利になった。
便利とは「めんどうなこと」が減っていくということである。
それはたいへんありがたいことではあるのだけれど、そのことによって今の私たちは、逆に「生きていくことへの《敬意》」を持ちづらくなっているのかもしれない。
電卓を押せば答えが出てくる計算をなぜわざわざ勉強し練習しなければならないのかと、その練習をめんどうくさがる子どもたちは、勉強への《敬意》のみならず、それを指示する親や先生、ひいては自分がそれをできるようになることを求めている社会への《敬意》をなくしているのかもしれない。
そして、それは同時に「勉強している自分」への《敬意》の喪失でもあるだろう。
あるいは「未来の自分」への《敬意》の。
生きるということは本当は「めんどうなこと」をやり続けるということだ。
その小さな「めんどう」の一つ一つを「やりなさい」と自分に命ずることが、実は自分の人生への《敬意》なのだ。
そのことを忘れてはいけない。
と思って、俊ちゃんが帰った後、いつになく部屋を美しくした、いつになくエラカッタ私ですが、パソコンへの《敬意》の方は、これからも、
それを自在に扱える人たちへの「最大の敬意」を表すること
だけで済ましてしまおうと思っております。
下の写真を見れば、ヤギコもまたそうであるようです。
Yagiko has respect for Syun,too.
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