視線の高さ
子ゆゑにこそ、よろづのあはれは思ひ知らるれ。
(子どもを持ってこそ、はじめてこの世のさまざまな情理というものがわかるのだよ)
― 吉田兼好 『徒然草』 (第百四十二段)―
11月のはじめの日曜日、公園に若い父親と子どもがいる。
父親は子どもの傍らにしゃがんで、その視線の高さを子どもと同じにしている。
子どもがふと足もとの何かをおぼつかない手で拾い、父親に示す。
父親はそれを受け取り、子どもに何かを話しかけている。
少し離れたところから私はそれを見ている。
よい日曜日だ。
男が父親になる、ということが本当はどういうことなのか、私にはわからない。
けれども、父親になるということは、ひょっとすれば、男が、それまで高く高くあろうとしてきた自分の視線を再びこうやって低くする機会を日常的に手にする、ということなのではないのか。
父子を見ながら、ふと、そんなことを思う。
より速く より高く より強く
これはたしか東京オリンピックのとき歌われた歌の中にあった歌詞だ。
けれども、それは言ってしまえば今でも男たちの中にひそかに流れるスローガンではなかったか。
男たちは、見る間に目を地から離し、より遠くを目指しながら、他よりも強く、他よりも速く、他よりも大きくなろうとする。
そして、それはまた、男性中心主義で作られて来た人間の社会が持ち続けてきた無言のスローガンでもあったろう。
けれども、そのような社会を引っ張ってきた男たちは、父親になることによって、ふたたび、地面から遠ざかっていた視線の高さを自分が幼かったあの頃に引き下ろされるのではないか。
あるいは、幼い子どもの手を引くことで、自分のあの頃の歩幅を思い出すのでは。
そうすることで、やっと男たちは、小さかったあのころの自分にとっての世界がどれほどの高さと広さと豊かさを持っていたかを思い出すのだ。
そして、そんな世界が、父親がしかと見ていなければ、どれほどの壊れやすさを持っていたものであったかにも気づく。
父親が自分の視線の高さを子どもと同じにし、歩幅を子どもと同じにする。
そんな何気ない行為が、遠くばかりを見て地に足のつかなかった男たちを人らしくさせていくのではないだろうか。
兼好が書く、「よき一言」を言うあの「ある荒夷(あらえびす)の恐ろしげなる」(恐ろしそうな顔をした東国の武士)も、まちがいなくそんなふうに子どもに対してきたのだ。
ひとしきり遊んだ後、やがて立ち上がった父親は小さな子どもの手を引いて向うに歩いて行く。
昼に近い秋の終りのやわらかな日差しは、ずっとそんな父子を明るくしていた。
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