くるむ
木は中心から肥え育つものでなく、つねに外へ外へと、新しく年輪をふやすことによって育つ(中略)。外へ外へと新生するから、傷も、傷に連鎖して生じた狂いも、年月と共に内へ内へとくるむのだろう。くるむ、とはやさしい情をふくむことである。中身をいたわり、庇い、外からの災いの防ぎ役もかねるのが、くるむということ。生きているものは人も鳥けものもみな、傷にはくるみを要する。木も当然そうする。くるんで、庇って、変形を補って、そして成るべくは無傷の木と同じく、丸い幹に仕上げていこうとする。
― 幸田文 『木』 (「ひのき」) ―
幸田文は檜(ひのき)を見に行く。
二本の並んだ兄弟のような木を見る。
樹齢三百年ほど。
一本はまっすぐ、一本はやや傾斜し、自然の絵というか、見惚れさせる風趣である。両木とも根張りが非常に逞しく、土をはなれるあたりの幹の立ち上がりの強さといったら、みごとこの上ない。(中略)もちろん幹はぐうんと円筒形のまま持ち上り、下枝はなく、檜特有の樹皮は谷のしめりを吸って、しっとり濡れている。
という木である。
ところが、すこしかしいだ木の方は材としては使えないと木材業の人は言うのである。
それは材としてはほとんど「鼻つまみ」と言っていいほどの厄介ものであるのだと言う。
見た目がすこしもちがわぬ二本の木の一方が、本当に材として劣等であるというのが納得のいかぬ彼女は、それがどんなに役立たずの厄介ものであるかを見せてもらえまいかと言う。
後日、通知が来て、彼女はそれを挽くところを見に行く。
それはおそるべきものであった。
動力で廻転するノコギリに、「一見なめらかな肌をのべて、良材とさして目立つ変わりなく」見えた、木材業者からアテと呼ばれる不良材のその檜は、突然身をねじったのだという。
「耐えかねた、といったような、反りの打ちかた」で。
そして、最後に残された部分にノコギリが入ると、その材は圧倒的な抵抗を見せる。
それを幸田文はこんなふうに書く。
材は抵抗した。ガッガッと刃を拒絶して、進もうとしない。が、材は勝手に後退は、できないようになっている。刃もまた廻転を止めない。誰もがみつめていた。殺気とはこんなものか、刃物への恐怖、素手でむかった凄さ。それは刃にも材にも戦いだった。(中略)スイッチが止められた。刃の入った部分に、くさびが打込まれ、くさびを打つ音が胸にひびく。切口がひろげられた。スイッチが入る。それでもまだ材は、抵抗して刃を嫌った。二度、三度。そして、刃は通った。すうっと切れていった。切れていくかに見えて、人がゆるんだその時、またガッと高く歯向って、瞬間、材はさっと二つに、斜めに裂けて、小さく裂けたほうが裂目を仰に向けて、ごろんと、ころがった。その場がしんとした。一斉におごそかな空気が包んだ。たまらなくて、裂けたもののそばに膝をついた。自爆したみたいな、その三角に裂けたアテは、強烈な、檜の芳香を放っていた。裂けた木の目は、あぶらをたくさんに含んだうす紅の色沢で、こまかい木目を重ねていた。
その生の始まりや初期に、自分の上を何かに覆われていた木は、生きている木の本性として太陽と空間を求めてほんの小さな傾きを持つ。
そのわずかな傾き、歪み。
木は、その歪みの上に、長い年月をかけて、上から上から、年輪を重ねて、隠し、くるみ、誰から見ても恥ずかしくないまあるく太い幹を持って大きくなっていく。
にもかかわらず、その太い軀幹の内部には永久の癖を背負ったままにいたことのせつなさ、苦しさ。
それを幸田文は思いやる。
人が生きていくこととあまりにも同じではないか、と。
もちろん、その裂けたもののそばに膝をついたとき、彼女は自分にその木を重ね合わせている。
もう一度冒頭の引用の文章を読んでもらいたい。
それは、私のことであり、あなたのことであり、人みながその内にかかえているものである。
先日、手ぶくろの詩を書いていた大村文ちゃんからの連想で、同じ名前の幸田文の『木』をひさしぶりに読んでみたのだが、いやはや、どれもこれもなんという文章であったろう!
というわけで、今回は引用ばかりの文章になってしまった。
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