閉じられた空間
現代、(中略)「キャラクター」という言葉は「特定のコミュニティの内部で共有される人物像」のことを指すものとして使用されている。
私たちが個人に対して「あの人は~だ」と人物像を描くとき、それ(キャラクター)は特定のコミュニティ(小さな物語を規定する共同性)によって決定された位置のことに他ならない。
― 宇野常寛 『ゼロ年代の想像力』 ―
映画 「桐島、部活やめるってよ」について色々書いてみたがうまくまとまらない。
むろん、話ならいっぱいできる。
大石君とはもちろん、たぶん、今度帰った時、おじさんたちには全面展開して話すだろう。
けれど、いざそれを論にしようとするとき、その焦点が定まらないのだ。
理由は分かっている。
私には「よくわからないこと」があるのだ。
この映画の中で「映画部」が撮っているホラー映画の中に、こんなセリフがある。
負けるな。
ぼくたちはこの世界で生きていかなければならないんだから。
これは出演者がこの「セリフ」を「監督」に確認する、という形で二度まで繰り返されるのだが、この言葉の中に込められた「この世界」のニュアンスが、私にはたぶんリアルにつかまえられないのだ。
つまり、このセリフに込められている今の高校生や若者が持つ「閉塞感」が私にはうまく捉えられないのだ。
要は、私は、今の高校生にとって、自分のいる「クラス」あるいは「学校」というものが何ほどの意味を持っているのかが実はわからないのだ。
それというのも、すくなくとも、高校時代の私にとって、「クラス」などというものは何の意味もないものであったからだ。
クラスメートというものも、長距離列車の同じ車両にたまたま乗り合わせた乗客、以上のものであったような気がしない。
実際、そこにどんな人間が乗っているかに私はほとんど何の関心も持たなかったし、たまに奥の四人がけの席から嬌声が上がったりしても、多くの場合、私はひとり窓の外を眺めて列車に揺られていただけだった。
当時「キャラクター」という言葉があったのかなかったのか、私は知らない。
けれど、すくなくとも、自分がどのような「キャラクター」としてクラスの者たちに思われているかを気にした記憶は私にはない。
たとえそれが、「誰からもなんとも思われていない」ということであったにしても、別にそれでよかった。
「周囲の視線」を気にするそんな自意識過剰は、むしろ中学の時に「卒業」したのだ。
そしてそれは、なにも私だけに限ったことではなかったような気がする。
高校とは、私たちの多くにとって「解き放たれた場所」としてあった。
そこは、自分に誰の視線も絡みつくことのない乾いた「自由な空間」としてあったような気がする。
だが、どうやら時代はそうではないように動いてきてしまったのかもしれない。
たとえば、私たちと同年輩である村上龍が自らの高校時代を描いた『69』を思い出し、それと、今世紀になってから書かれた綿矢りさの『蹴りたい背中』、あるいは白岩玄の『野ブタ。をプロデュース』を比較してみると、そこでは高校の「クラス」というものが持っている意味が、奇妙に閉じられた空間へと変質してきているように思われるのだ。
今日は実験だから、適当に五人で一班を作れ。先生が何の気なしに言った一言のせいで、理科室にはただならぬ緊張が走った。適当に座れと言われて、適当な所に座る子なんて、一人もいないんだ。ごく一瞬のうちに働く緻密な計算――五人全員親しい友達で固められるか、それとも足りない分を余り者で補わなければいけないか――がなされ、友だちを探し求めて泳ぐ視線同士がみるみるうちに絡み合い、グループが編まれていく。
「蹴りたい背中」
たとえば、こんな文章を読んで、
これって、何の話だよ
などと思ってしまう私と「何気ない一言」を言ってしまう「先生」はたぶん同じ世代なのだ。
これを書いたのが女子であるということを割引いても、どうやら今の高校というのは人間関係と自意識の網の目が濃密に張り巡らされている場所へと変わってきているらしいのだ。
女子のみならず、男子もまた、クラスの中で自分がどの位置にいるかに気を配り、傷つかぬように軽やかに振舞うことが最も重要なこととして描かれていたのが『野ブタ。をプロデュース』だった。
さて、映画では、当初なんだかさえなく見える「映画部」の二人が、体育の時間のサッカーのチームには最後まで指名されない場面が映される。
そのことに、彼らは馴れきってはいるが、さりとて、そのように示される体育における固定的なヒエラルキーを理不尽なものも感じているらしい。
おそらく、このヒエラルキーは、体育のみならずあらゆる場面に適用されているのだ。
学校もしくはクラスで、その構成員の中で共有される人物像がその人間の「キャラクター」として流通され、それがいったん受容されるや、それがその人間の固定的な像として流布し改訂されることがない「閉鎖的なコミュニティ」が彼らがいる高校であって、それは彼らの「本来の自分」を歪め傷つけるものとして意識されている。
だから、彼らが撮ろうとする映画の《リアリティ》は、映画部の顧問が言う
「撮るものは、学校の中の、友情、恋愛、いっぱいあるだろ」
という《学園物》の中にあるのではなく、むしろエイリアンに侵略され噛まれて、学園の一人一人が次々に「自分が自分でなくなっていく」《SFホラー》の中にあることを観客は納得する。
けれども、60年代後半に高校生であったおじさんの私には、「高校」という場所が、そのような場所であることが、たぶん究極のところで本当にはよくわからないのだ。
この映画は同じ時点、同じ場面に立ち戻ることを何度も繰り返す。
それは「羅生門」の中で黒沢明が描いたような「同じ事件が話者によって異なったものとして述べられる」という「《藪の中》的状況」を示すものではなく、まったく同じ出来事が視点の違うカメラによって、ちがう登場人物を映し出すだけなのだ。
けれども、そのことによって、ある場面で言われた何気ない言葉や出来事が、それぞれの人物の内面に与えているヒリヒリするような「傷」や「自意識」として映像に描かれていくことになる。
なぜそれらの出来事や言葉がヒリヒリしたものになるかといえば、それらの一つ一つが「特定のコミュニティの内部で共有される人物像」である「キャラクター」の承認を、その本人に強いていることを観客である私たちにはっきりと示すからだ。
映画の大筋と登場人物は、大石君が書いている通りである。
一部を再録してみれば
これは、桐島がいなくなってからの物語です。
なので、当然、焦点がばらけます。
桐島を中心に動いていた高校のバランスが、くずれます。
桐島に頼り切っていたバレーボール部。
桐島の男友達グループ。
桐島の彼女の所属する女子グループ。
桐島とは関係のない吹奏楽部(部長が、桐島の親友と呼ばれるヒロキに思いを寄せている)。
桐島とは関係のない映画部。
それらの物語が、桐島が不在になった金曜日から次の週の火曜日までまさにシンフォニー的すすみます。
桐島がいなくなったことによりくずれたバランスを必死になって取り戻そうとする奴らと、そいつらとは無関係で進んで行く時間を過ごす吹奏楽部や映画部。
的確な要約である。
これに付けくわえるなら、要は、クラスもしくは学校という「小さなコミュニティ」が持っていた秩序が、そのヒエラルキーの頂点に位置していたはずの、勉強も運動も出来、ルックスもよい(らしい)「桐島」の不在によって崩壊していくその五日間を描いた映画だといってもよい。
ところで、ここに大石君が書き漏らした大事な登場人物がいることを指摘しておかなければならない。
それは、坊主頭の野球部の先輩である。
この先輩だけがこの映画の中で「桐島事件」から無縁なところに生きている。
それは、そもそもこの先輩が3年生であって2年生の出来事である「桐島事件」は無縁のところにいることから生じるのだが、本質はもっと別のところにあることを映画は示す。
この男は、あんまり強くもないその高校の野球部のキャプテンである。
にもかかわらず、彼は部活に出なくなっているヒロキという後輩に校内で出合ったとき
「おまえ、髪、伸びたなあ」
とさも感心したように言い、
「今度の日曜、試合あるんだけどさあ、出てくれないかなあ」
などと、言うのである。
その言葉はけっして高圧的ではなく、対等の者に語る口調である。
この先輩は、すでに夏の大会が終わった2学期になっても相変わらず坊主頭である。
その彼はヒロキから
「先輩は部活、まだやってるんですか」
と聞かれたとき、驚くべき答えをする。
「まだ、ドラフト終わってないから」
ハッとして声もないヒロキに、もちろん、自分のところにどこかのスカウトが接触を求めている、なんてことはないよ、と言いながら、にもかかわらず、この先輩はもう一度
「まだ、ドラフト終わってないから。一応、それがケジメだから」
と言うのである。
ヒロキは呆然とする。
先輩の「世間知らず」に呆然としたのではない。
そうではなくて、この先輩が、自分の行動の《基準》を、学校という「小さなコミュニティ」の価値観にではなく、より大きな外部に置いていることが、この時はじめてヒロキに見えたからだ。
いかにそれが突拍子のないものであれ、外部につながる回路を持った者と、内部に滞留する者の差は歴然としている。
そこにヒロキの絶句の意味がある。
もう一度
負けるな。
ぼくたちはこの世界で生きていかなければならないんだから。
というセリフに戻ってみよう。
ここで言われる「この世界」とは、はたして三年間の「高校生活」で幕を閉じるものなのだろうか。
むしろ、それは高校を出た後も続くものとして語られているのだと思う。
彼らが高校を卒業して出て行く社会もまた、同じように「自分が自分でなくなっていく」ことを強要する何ものかが存在し続ける場所としてとらえられているのではなかろうか。
そして、それはたぶん正しいのだ。
派遣や非正規労働が一般化する今の日本の社会は彼らがいる「高校」よりもさらに過酷な場所としてあるだろう。
けれど、それをもし打ち破るものがあるとすれば「より広い」世界との回路をつなぎ、それを持ちつけることでしかないだろう。
などと、書きつつ、それにしても長くなった。
しかも、まとまっていない。
勝田氏の渋面が浮かぶ。
これでも「Love Letter」や「ハウル」に比べれば短い、ということで勘弁してもらおう。
でも、やっぱり私にはわからないなあ、なんで高校がそんなに閉鎖的な場所であるのかが。
----------------------------------------------------------------------------