ヨーロッパの秋
主よ、もう秋です。過ぎ去った夏はまことに偉大でした。
- リルケ 「秋立つ日」 (大山定一 訳)-
十月、スウェーデン、ヨーテボリの地ではもう息が白いそうである。
今朝、Skypeで話したはずきさんがそう言っていた。
いやはや。
今日、私はTシャツに半ズボンで昼間子どもを教えていたのに!
木々はすでに紅葉を過ぎて、丸坊主になったものもあるとか。
日は7時近くにならないと昇らぬそうである。
北緯60度になんなんとする地である。
ほんの二週間前の秋分の日には、地球上のあらゆる地点で昼夜は12時間ずつあったはずなのに、高緯度地方はみるみる日が短くなっていくらしい。
彼女が彼の地に着いた八月の末から、毎日の天気は変わりやすく、雨の降らぬ日はないそうである。
いやはや。
そんな話をきいて、スウェーデンのすこし南に位置するドイツ(北海道よりはるかに緯度は高い)詩人リルケが歌った「秋立つ日」という詩の語る言葉の意味がはじめてわかったような気がしてきた。
「秋立つ日」、すなわち立秋なんてのは、八月の六日か七日のことである。
日本では「目にはさやかに見えねども」と無理やりに風の音に秋を見るしかない頃である。
カンカン照り。
高校球児たちが真っ黒になって甲子園で汗まみれになっている頃である。
にもかかわらず、詩は
陽光燦々たる日をもう二日だけおめぐみくださるよう。
と「主」にお願いしているのである。
なんじゃろか、これは
と、私は思っていたのである。
もっとも、ヨーロッパにはたして東洋の「立秋」なんて節季があるかどうかはわからないから、この「秋立つ日」は、ひょっとしたら秋分の日のことなのかもしれないのだが。
とはいえ、日本では十月でも半ズボンでいられる日もあるのである。
それを、なんだよ、この大げささは!
私はそう思っていた。
けれど、今日、はずきさんの話を聞いて、北海、バルト海に面したイギリス、フランス、ドイツといった国々の人々にとって、夏というものがどのようなものであるのか、そして秋というものがいかなるものであるのかが、はじめてはっきりわかるような気がしてきた。
そしてこの詩の終連がこんな言葉で終わることも、ヨーロッパの人々にとっては極めて切実な現実感をもって受け取られていたことに気づくのだ。
いま家を持たぬものはもはや家をつくることができませぬ。
いま孤独な人間は長い冬の孤独に棲むでせう。
夜ふけにおき、本をよみ、ながい手紙をかき、
そして樹々が落葉するとき、並木のはずれを不安げに行ったり来たりするのです。
はずきさんは彼の地で来年の夏までスウェーデン語を学ぶそうである。
たくさん友だちをつくって、これからの長い冬、けっしてこんな孤独に沈み込みませんように。
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