大人の「ツヤ」で魅せる秋
覧鏡獨無語
凝眸意似痴
(鏡の前に座っても
ぼーっとして言うことなんて何もないわ
じっと見つめる眸は
まるでバカみたい)
― 呂楚卿 ―
昨日歯医者に行った。
新しい入れ歯の試着である。
「イーとやってみてください」
と言うので「イー」とやる。
やっているところに歯医者が手鏡を手渡すので、自分の顔を見る。
「イーだ!」なんてのは、ごくごく子供のころ、叱られた母親か、喧嘩したなかよし相手にやってみせたぐらいで、なかなか大人になってやることではない。
ましてそんな顔をつくづく鏡で見ることもない。
「どうですか」
どうですか、と言われてもそんなおっさんの顔が間が抜けていること、言うまでもない。
黙っていたら
「問題ないですかね」
と聞く。
聞かれてみれば問題なしとはしない。
「そういえば、歯茎がなんだか目立つみたいですけど」
「そうですか?前の入れ歯と同じ高さにしてあるんですがねぇ」
そう言って医者がもとの入れ歯を渡すからそれを入れてもう一度「イー」をやる。
「どうです」
やっぱりこっちは歯茎が目立たない。
「色ですかね」
歯医者が言う。
たしかに新しいやつは歯茎の色がやけに鮮やかなのだ。
古いやつはタバコのヤニに長年いぶされたせいなのか、年相応の適度のシブミを持っているのに、新しいのは若者の健康なる歯茎のピンク色である。
しわ顔の口元にこれはたいへんバカげている。
「それ次回までになんとかしましょう」
と言うので、「お願いします」と帰って来た。
さて、今朝、新聞の中の折り込みをいつものようにさっさと古新聞の袋に捨てようとしたら、そのいちばん上の折り込みに目が留まってしまった。
そこに昨日私が手鏡で見たようなツヤツヤのピンク色がいくつも並んでいたからだ。
大きな題字に曰く、
大人の「ツヤ」を魅せる秋
入れ歯ではない。
口紅の広告である。
そこには微妙に色のニュアンスのちがう口紅を塗ったくちびるがいっぱい並んでいる。
そこにある美しいくちびるの色見本でじっくり照合したところ、昨日私の目にした新しい入れ歯の色はどうやら
肌をきれいに見せる効果大!
大人かわいいレッド
であるところの《スタイリッシュレッド》なる色でござった。
うーん、あの色のままの方がよかったか。
さて今日の引用、佐藤春夫の「支那歴朝名媛詩鈔」と銘うたれた『車塵集』の中にある絶句の前半部分。
佐藤の訳は私には難し過ぎるので拙訳を載せておきました。
作者の呂楚卿は「支那歴朝名媛」の一人ですからもちろん女性。
佐藤によれば明朝の妓女であるらしい。
詩の後半は以下の如し
遥遥無住着
若箇是相思
(こうやって鏡を見てても
心がはろばろと此処にないのは
私があの人との恋にうっとりしているから
だって「互いに好きになる」ってそんなことでしょ)
鏡に向かって同じ「無語」でも、入れ歯のおっさんと恋する娘さんとはかくもちがう。
むろん彼女の唇には艶やかなる紅が引かれていたことでしょう。
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