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すゑの松山

 

   契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは

                               清原元輔

  - 大岡信 「百人一首」 ―

 

 というわけで、昨日から「蜻蛉日記」を読んでいるのだが、中に次のような歌が出て来た。

  われをのみ頼むと言へばゆくすゑの松の契りも来てこそは見め

 これは作者の父、藤原倫寧(ともやす)が陸奥の守として任国へ下る際に、

 あなた様だけを頼りに娘を置いて旅立つ私には旅の行末が遠く思われ、娘との仲も末長く、と思わずにはいられません。
 ( 君をのみ頼むたびなるこころにはゆくすゑ遠く思ほゆるかな 

という歌を贈られた婿の兼家がそれへの返しとして贈った歌である。
 歌は

 私だけが頼りだというお心は確かに受け取りました。あなたが行かれる陸奥の末の松山の歌のように、私たちの夫婦の間も末長く変わりません。こちらに帰られた時に見てくださいませ。

というような意味になるのだが、まあ、それはさておき、私が呆然と自分の迂闊に気づいたのは「すゑの松山」が陸奥=東北にあるという事実だった。

 もちろん、私たちが「末の松山」を知っているのは、今日引用した百人一首の歌によるだろう。
 これは清少納言の父親の清原元輔の歌で、

 覚えておいでですか、私たち、誓い合いましたよねえ。お互いに涙の袖を絞りながら、どんな恐ろしい波が来てさえも、あの「末の松山」を越えるなどということが、けっして、けっして起きなかったように、私たちの気持ちもどんなことがあっても変わらないと・・・。

というような意味になる。
 手元にある高校生用の旺文社の古語辞典によれば、「すゑのまつやま」は
  宮城県多賀城市にある海岸近くにあったという丘。松で名高い。
とある。

 さて、そもそも
  丘にある松を波が越す、とは一体どういことなのだ!
などと私は今まで思ったこともなかったし、だいたい比喩が大げさすぎると思っていたのだが、不意に今日、これはただの波のことではなく津波のことを言っておるのではないだろうかとようやく気づいたのだ。
 これらの歌が歌われた100年ほど前の869年の貞観地震の折の遠い陸奥の出来事が、「変わり果てた周囲」と「変わらぬ《末の松山》」の対比として伝えられ、それが王朝の人々の記憶に刻まれ、やがて歌枕に昇華したのではなかろうか。
 たぶん、このようなことは国文学を専攻されている方々にとっては常識に類することだったのかもしれないけれど、私は今日突然そのことに思い当たった。
 迂闊といえば、あまりに迂闊。
 とはいえ、そう思って読むと、これまで何やら下らぬ歌のように思えていた元輔の歌も、不意に面目を改めたように見えてきます。


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