蔭
すべて疲れはてた者は太陽を呪う、
彼らにとって樹木の値打ちは―― 蔭!
― ニーチェ 「悦ばしき知識」 (信太正三 訳) ―
「何言ってんだよ」、
ってもんですな。
今日日の日本で、疲れてなくったって太陽を呪わぬ者があるか、とニーチェ氏には言いたいですな。
あんたは日本の夏を知らんのじゃ、と。
でもね、実はそうでもないらしい。
こないだやって来た愛紗君の鉛筆を持ってる手がやけに黒いから
「えらい黒いなあ!」
と言うと、
「ああ、これ?毎日自転車乗ってるから」
と、ちょっと恥ずかしそうに言う。
なんでも、毎日日盛りの中を片道30分の道のり、バドミントンの部活のために毎日学校へ自転車で通っているらしい。
それで、手の甲が真っ黒に日焼けしているんだとか。
若いというのはスゴイもんですな。
ほっぺたもぱんぱんに張っているし、いやはや、高校生というのはこうでなくっちゃいけません。
エネルギーが余っております。
昼過ぎにやって来て、夜の8時までみっちり数学の宿題をやって、
「やったー!全部おわったぁ!!」
と喜んで帰って行きました。
エネルギーです。
エライものです。
そして、たしかに、疲れを知らぬ健全なる若者はまったく太陽を呪っていない!
でもね、と私は思ってしまう。
活力あふれたニーチェ氏が考えておられる「樹木の値打ち」っていったい何だったんでしょう。
これを《材》として利用しようと言うのでしょうか。
もしそうなら、私には荘子さんが恵子(けいし)向かって言ったという次の言葉の方がしっくりします。
今あなたのところに大木があって用いようがないとご心配ですが、それを何物も存在しない広々とした空漠の野原に植えて、そのまわりでかって気ままに休息し、その樹陰でのびやかに腹ばって眠るということを、どうしてなさらないのです。
(今、子に大樹ありてその無用を患(うれ)う。何ぞこれを無何有(むかゆう)の郷、広莫の野に樹(う)え、彷徨乎(ほうこうこ)として其の側に無為にし、逍遥乎(しょうようこ)として其の下に寝臥(しんが)せざる。)
そういえば西行にこんな歌もありました。
道の辺に清水流るる柳陰(やなぎかげ)しばしとてこそ立ち止まりつれ
(道のほとりを冷たいきれいな水が流れている柳の木の陰に、
ほんのしばらくのつもりで立ち止まったのだが、ついついそこに長居をしたことだよ)
旅慣れた西行さんですら、こうです。
ニーチェ氏にはわからないかもしれませんが、これが日本の夏というものです。
樹は蔭のためにあるのです。
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