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卒業

 

 卒業の暁といふ言葉かな

                作者失念

 

 

 前田敦子という女の人がAKB48を「卒業」したそうである。
 NHKの9時のニュースでそう言っている。
 それがどういうことを意味するのか私には全然わからないのだが、テレビを見ながら思い出したのは宮沢章夫氏の「卒業」と題する文章である。
 短いので全文を載せてみる。

 

     卒業

 

 あるスポーツ選手が現役を引退すると発表した記者会見で、「引退ではなく卒業」と口にしたのは有名な話だ。真意はよくわからないが、それを耳にした私は、なにかたいへんなことがここに起こっているのではないかと思った。
 「卒業」である。
 この言葉を日常で使ってしまう気持ちがよくわからないのだ。ことによると人は、しばしばそれを使ってなにかを語ろうとしているのではないか。
 「俺も、今年で二十歳だしさ、バイクはもう卒業したよ」
 そんなふうに口にする暴走族の若者がいるかもしれないのである。「バイクに乗るのはもうやめにする」と簡単な言葉で表現してもよかったはずだが、なにかが、暴走族の若者をうながし、「卒業」という言葉を使わせた。ちょっと気のきいた言葉遣いというだけではすまされないなにかがここにあるのだ。
 いまもこの国のどこかで、「卒業する人」が出現しているはずだ。この春から幼稚園の年長組に入った園児はどうだ。
 「俺も、年長だしさ、ブランコもう卒業したよ」
 あるいは、建設会社に勤務するものが昇進し、現場から本社勤務になったとしたらどうか。
 「俺もようやく、ヘルメットは卒業だ」
 さらに事情がわからなければまったく理解できない「卒業者」も数多くいるにちがいなく、「私もようやく、日暮里は卒業になったよ」とか、「ようやく、幅15センチは卒業しました」「蓋は卒業です」などと口にしているかもしれない。
 では、なぜ、「入学」ではだめなのか。
 「引退ではなく、入学」
 たしかにこれではなんのことだかまったくわからない。まして「引退ではなく、中退」ではいよいよだめだ。「入学」でも、「中退」でもない。どうやら、「卒業」でなければいけないことになっているらしい。
 人は、卒業したいのである。あらゆることから卒業したい。だったらはじめなければいいが、ついついはじめてしまう。「卒業」してはじめてなにかしら一人前になるとでもいうようだ。だったら私は、「留年」でいい。
 「引退ではなく、留年」
 どこまで言ってもだらだらと、日常はつづくのである。

 

  ― 宮沢章夫 『青空の方法』 ―
 

 こんな短い文章で、なんとおもしろい!
 そして考えさせる。
 才能ですな。
 なんといっても、目のつけどころが尋常ではない。
 私も、つまらぬことをだらだら書いている「通信」なんて「卒業」すべきかもしれない。
 けれども、考えてみれば、私は二十歳のとき大学を「中退」して以来、何一つ「卒業」したものがないのである。
 酒も、タバコも、囲碁も、そして阪神も、何一つ「卒業」したものがない。
 文学も、哲学も、歴史も、語学も、数学も、物理も、全然「卒業」できない。
 かといって、「現役」としてそれらを必死にがんばってる!というわけでもない。
 なんとなくやっている、だけである。
 というか、大学入学時もそうだったが、そもそも「卒業」を目指していない、と言うべきだろうか。
 さすがに「ブランコ」はもうやらないけれど、それを決然として「卒業」しようと思った記憶はない。
 気がついたら、やらなくなっていただけのことである。

 そもそも「卒業」ってどういうことなのしょう。
 宮沢氏の言うように、それによって「一人前になる」ということなんだろうか。
 だとすれば、すくなくとも私は「卒業」向きの精神構造ではないらしいなあ。
 だから、こんなにだらだらと・・・。 

 ところで、前田女史は「卒業の暁には」何をなさるおつもりなんでしょうか。
 


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