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「感情」と「勘定」

 

 

 ヒデ リノ トキハナミダヲ ナガシ
  サムサノ ナツハオロオロアルキ

 

 ― 宮澤賢治 「雨ニモマケズ」 (日本詩人全集20「宮澤賢治」) ―

 

 なかなか暑い。
 暑い日が続く。
 長く雨が降らないせいか、勝田氏の田んぼの稲は、穂の先が赤くなってきているという。
 たいへんである。
 こういう「日照り」のとき、賢治ならば、ナミダヲナガシそうだなあ、などと思っていたら、こないだ観た映画「グスコーブドリの伝記」のことを思い出してしまいました。

 あの映画は、なかなかドンデモナイ映画だったのですが、おかげで、見終わった私は、大いに笑わせてもらったので、そのトンデモナサの一々を論(あげつら)うつもりは全くないのだけれど、一つ、中で朗読されていた「雨ニモマケズ」についてだけは一言書いておこうかと思います。

 あの映画は、その最初の部分で学校の先生が「雨ニモマケズ」を朗読する場面があるのですが、中で今日引用した 「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」の部分が、

  ヒドリノトキハナミダヲナガシ

として読まれておりました。
 (もちろん、わたしはまずここで笑いました。)
 たしかに、この詩を書きつけてある手帳には「ヒドリ」と書いてあるらしいのです。
 ですから、宮澤賢治全集にも
 「ヒドリノトキハナミダヲナガシ」
と書かれております。
 ただし、手元にある「ちくま文庫版」の全集には欄外に《備考》として

 「ヒドリ」は「ヒデリ」の誤記であろう

と書かれております。
 まあ、これは実に賢明な読み替えであろうと思います。
 ところが、どうやらテキストは厳密に読むべきだというのか、新しい全集では「ヒドリ」は「日取り」で、「日雇い仕事」の意味であろう、などという説がまことしやかに言われているらしい。
 (「らしい」というのは、昔、新聞か何かで読んだからで、私がことさらそれにあたってみたわけではないからです)
 とはいえ、そもそも「日取り」などというのは「結婚式の日取り」などという時に使う言葉で、それに「日給を取る」などという意味があろうなどというのはこじつけもはなはだしいのではあるまいか、と私は思うわけです。
 百歩譲って、仮に「日雇い」を「日取り」という方言が東北にあるとしても

 サムサノナツハオロオロアルキ

という言葉と対句として書かれているはずのこの句は、今年のような「暑い夏」=「日照り」を指しているのであろうと考えるのが尋常の思考であろうし、雨の代わりに「涙」を流すというのもごく自然な言葉の流れのように思われます。
 映画の監修者として全集の編集者である天沢退二郎氏の名前がありましたから、「ここは厳密に」と考えたのかもしれませんが、
  「それって、どーよ?」 
と私は思ってしまいました。

 とはいえ、まあ、これは、ゴアイキョウ、でしょうか。
 けれども、

  アラユルコトヲ
  ジブンヲカンジョウニ入レズニ
  ヨクミキキシワカリ
  ソシテワスレズ

の部分にある「カンジョウ」のところを「感情」というイントネーションで読んでいたのはいかがなものでしょう。
 これはどう考えても「感情」ではなく「勘定」でしょう!
 そして、「感情」と「勘定」はイントネーションがちがう。
 だいたい「自分を感情に入れる」なんて、どういうことでしょう?

  あらゆることを
  自分を勘定に入れずに
  よく見聞きしわかり
  そして忘れず

 「自分を勘定に入れず」にあらゆる行動ができることが、賢治の一番なりたい人間の姿であったはずなのに、
   天沢さん、つまらぬ原典主義より、朗読のイントネーションをこそ「監修」してよ!
と私は思ったことでした。


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