絃
絃(いと)は張られてゐるが もう
誰もそれから調べを引き出さない
― 立原道造 「民謡」 ―
なるみちゃんの家にいる金魚はめちゃくちゃデカい。
二年ほど前、俊ちゃんと遊びに行ったとき、私はその大きさに呆れてしまった。
「なんじゃこれ!コイか」
ときくと
「金魚!」
と言う。
体長は私の家の金魚の5倍ほどもある。
ということは、体積はその3乗ということになるから、125倍(!)である。
なるみの家の水槽は私の家の水槽よりも二回りほども大きいが、その金魚一匹だけで、もういっぱいいっぱいであった。
同じ金魚なのにこのように大きさがちがうのは、彼らには「成長」をとどめる遺伝子がないからなのだそうだ。
したがって、彼らは餌さえあればいくらでも大きくなれる。
さて、人間はというと、なかなかそうはいかない。
子どもたちは皆、あと十センチ、あと五センチ、あと三センチ背が高くなりたいとみな望むが、どんな子でもやがて成長は止まる。
女子はそのほとんどが中学校で、そして男子も高校時代にみな背が伸びなくなる。
それからはどうあがいても大きくはなれない。
それは遺伝子がそこで成長をやめることをプログラムしているからだ。
人に限らず、一部の魚類を除くセキツイ動物たちは皆、あるところで成長を止める。
犬や猫は一年で大人の体になり、それから大きくはならない。
ペットには人間同様、肥満はあるかもしれないが、それは「成長」ではない。
まして野生のものたちは種によって皆同じ体型をしている。
体を大きくするメリットより、大きくなることのデメリットが、大きくなることを抑止しているのだ。
その大きさでいることが種の存続に有利だからこそ、ほとんどの動物たちは遺伝子によってその大きさを規定されている。
「成長」をやめた者は代わりに「成熟」をしはじめる。
あらゆる動物はそうである。
人間もまたそうやって数百万年を生き延びて来た。
「成長」が終われば「成熟」。
それが普通のことだった。
「成熟」期に入るとは「自分のため」にではなく「次の世代のため」に生きる時期に入るということだ。
世界各地にある成人への通過儀礼とは人が「成長」から「成熟」へと向かう区切りとして存在したのだ。
ところが、いつしか時代は「成熟」がかえりみられない時代になった。
「成長」こそが善だと皆が思うようになった。
それは、資本主義の発達と、たぶんは、軌を一にしているだろう。
「必要」以上の製品を生み出す産業革命が私たちの意識の中に封じ込められていた「成長遺伝子」を解脱(かいだつ)させてしまったように思える。
「大きくなること」、「成長すること」が善となる時代の到来だった。
それは言ってしまえば「自分のことしか考えない」時代になったということでもある。
「成長」を求めるとは、まだ自分が伸び、拡大し得るところをを永遠に求めるということだ。
成熟を受けいれる者たちは、今ある自分の充実を求める、のに対し、成長を求める者は、今ある自分ではない自分、を夢想するだろう。
一時流行り、そして今も脈々と引き継がれている「自分探し」という言葉もまた、そのような「成熟を受け入れない時代」の心性の表れである。
十九世紀から始まる帝国主義の時代とは、欧州は隣国もまた自分たちと同じような力を持つがゆえに、より「未開」の土地にその成長を求めた時代だったといえる。
そして、アメリカは地続きにその「未開」のフロンティアを持つ国として、その始まりから「拡大」と「成長」を国是とした国だった。
冷戦の終結によってそのアメリカが「正義」を代表するようになたっとき、世界から「成熟」は抹殺され、「拡大」と「成長」こそが世界のスローガンになった。
グローバリズムの本質とはそういうことだ。
「成熟」の求めるものは「より善きこと」である。
「成長」の求めるものは「よりい大きい」ことである。
少しでも成功した企業が、なにがゆえに全国に支店を出し、海外に進出しなければならないのか。
衣料品メーカーや回転寿司までがなにゆえ世界に出て行かねばならないのかをたぶんその社長たちは考えたこともないだろう。
なぜなら、彼らにとって、それは考えるまでもなく、「大きいことはいいこと」だからだ。
成長がない企業は「死んでいる」ぐらいに思っているのだろう。
だが、そうやって大きくなりつづけることは、実はなるみの部屋の金魚になることではないのか。
それはもはや金魚ではあるまい。
棲める水槽がなくなるぞ。
そして、同じように成長し続けることを欲する者は、もう「人」ではあるまい。
安土・桃山期から江戸前期までの「高度成長」のあと、しずかな「成熟」へと向かった二六〇年間の江戸時代を歴史に持つ日本は、たぶん、いまだ江戸時代の長さにも満たぬ歴史しか持たぬアメリカのように「成長」こそがすべてだなどという幻想に皆がとらわれてはいないのだと思う。
将来の原発の割合を0%にすることを支持するものが多数を占めているというあの数字は、日本人が、明治以来続いた気ちがいじみた「成長」神話からゆっくりと退場しようと思っていることの表れではないだろうか。
絃は張られていると思うのだが、どうやればそれを鳴らすことができるのか。
ところで、自民党の総裁選挙に、史上最も情けない首相であった人が「新・経済成長戦略」なるバカバカしいことを口にしながら出馬するんだそうである。
なんともはや、この方には成熟も成長もないことである。
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