晩夏
夏の終りも真近い頃、とんぼたちの胴は、未だ十分に熟れていない唐辛子のように、淡い橙々色をしており、それは日照りのなかであえいでいる季節のための迷彩を感じさせた。
― 清水哲男 「旗の考えかた」―
本から目を上げると、西の空がうすい朱鷺色に染まって一日が終わろうとしている。
昔、絵の中でこんな色を見たことがあったな、とぼんやり思う。
何という題名だったろうか、今日と同じ色の夕空を背景に一本の木が画面の中央に立っているだけの絵。
それなのにふしぎになつかしい思いをいだかせる絵だった。
たしか、ルネ・マグリットだった。
何年か前のお盆の日に、私のほか、だあれも客のいない千葉の美術館で見たのだ。
それにしても、夏の日はなんとゆっくりと暮れてゆくのだろう。
私の部屋の南側にある団地の四角い給水塔は、北側の面はすでに暗く夜へと急いでいるのに、わずかに見える西側の面は光を受けてまだ明るく見えている。
久々に誰とも会わない一人っきりの一日だった。
朝から読んでいた本を読み終えて、午後、ラジオをつけたらグレン・グールドを特集していた。
あんまり熱心にでもなく聞きながらコーヒーを飲んでいた。
この塾も今日と明日はお盆休みだ。
午前中に降った雨のせいだろう、今夜は涼しい。
たぶん、晩夏、などという言葉は、本来高原地帯にしか使ってはいけないような気もするが、平地にだって、晩夏、を思わせる夜はある。
そして、こんな夜は、何のかかわりもないのだけれど
一人はあかりをつけることが出来た
そのそばで 本を読むのは別の人だった
とか
私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
把(とら)へようとするのだろうか 何かいぶかしかった
とか、そんななんでもない詩句がふと頭に浮かんできたりする。
これらは立原道造の詩なのだけれど、これがほんとうに夏の終りの詩かどうかはわからなくても、彼の詩はどれもどこにもべたつく汗のにおいがしないのだから、それはそれでかまわないだろう。
そもそも、彼の詩はどんな季節を歌っても夏の終わりから秋の初めを思わせるのは、生きた肉体の持つ汗臭さがどこにもないからだ。
そして、今夜の風呂上がりの私もまた汗からは遠い。
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