凱風舎
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見れど飽かぬかも

 

 また立ちかへる水無月の
 歎きを誰に語るべき。
 沙羅のみづ枝に花さけば、
 かなしき人の目ぞ見ゆる。

 

  ― 芥川龍之介 「相聞 三」 ―

 

 

 二週間前から、フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」の展覧会が上野で始まったそうだ。
 その公開の前日、
 「日本でのこの絵の公開は十二年ぶりになります」
とNHKのニュースが言っていた。
 そうか、十二年か、と思った。
 私が、あの絵を見てから、もう十二年がたったらしい。

 その頃は「青いターバンの少女」と呼ばれていたこの絵を観るために、当時名古屋に単身赴任していた勝田氏のところで一泊してから、二人、朝の近鉄の特急に乗って大阪に出かけたのは、六月だったろうか、七月だったろうか。
 暑い日だった。
 たどり着いた美術館のある天王寺の公園では昼間から演歌のカラオケが流れ、たくさん並んだ縁台でおっちゃんたちが将棋を指していた。
 大阪のおっちゃんたちは皆扇子をパタパタやっていた。
 美術館の前には、日なたに自分たちの影を砂利に踏む人たちの長い列ができていた。
 それが十二年前のことだという。
 そうか、私たちがあの絵を見た時、世界はまだ「9.11」も「3.11」も知らない時だったのだ。
 それは一つの感慨である。

 

 美術館の暗がりの中で見たあの絵を前にして私が感じていたことは、
   ただ、ずっと見ていたい
ということだけだった。
   ああ、この美術館の警備員になりたい!
 そう思った。
 本当にそう思った。
   そうすれば、一晩中、一人でこの絵を見ていられる!

 「フランダースの犬」の最後の場面で教会の中でルーベンスの絵を見ながら死んでいった少年ネロは幸せだったのだ、と思った。
 そんな絵というのがあるのだ。
 見ればわかる。
 それはポスターや画集や、あるいはさまざまなメディアを通して見る画像とは、全く違う輝きを持っている絵だ。
 「オーラ」という言葉はこの絵のためにある。
 本物とコピーがこれほどに違う絵を私は知らない。

 

 人は、少女については、そのあるところのものを愛し、少年については、それが予想させるものを愛する。

 ゲーテは「詩と真実」の中でこう述べている。
 その通りだ。
 もちろん、少年も少女も途上の者だ。
 だから、少女にも、少年と同じように「未来」はある。
 けれども、その「現在」があまりにも移ろいやすく、その美しさはあまりにもはかないにもかかわらず、そこに、成熟した女性のそれとはちがう、美しさ、あいらしさが、一つの頂点として立ち上る時期が女性には存在する。
 《あえかな》という日本語でのみ呼ぶべきものかもしれないその美しさを、そのあえかさゆえにこそ、人は永遠にとどめておきたいと思うのだ。
 それが絵になって目の前にある。
 フェルメールの絵とはそんな絵だ。

  美しいものとは、変化させようと思うことのできないものである。

 シモ―ヌ・ヴェイユは、こう「美しい」を定義している。
 なんと正しい定義だ!
 見ればわかる。
 「美しい」というものが本当にこの世にあることがわかる。
 そこに何を加えたいとも、そこから何を削りたいとも思えない、そんな「完璧な美しさ」がこの絵にある。
 ただ、眺めて呆然とするしかないものが目の前にある。

 できれば、観に行ってごらんなさい。
 万難を排して!!
 長い列を並んだって、これは見るに値する絵だ。 


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