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人災と天災

 

 

 人はむかし嵐の中に檣(ほばしら)を切り倒すべくちからあはせき 

                                     小池光

 

 

 

 人災、なのだそうである。
 天災ではないそうである。
 福島の原発事故のことである。
 国会の事故調がそう最終報告を出したそうである。

 もちろん、事故への過った対応があれば、それは厳しく検証されねばならないし、その責任は追及されねばならないだろう。
 けれども、あの事故のすべてが「人災」だと思いこまない方がいい。
 それはあの事故の教訓を矮小化することだと私は思う。
 ある事柄を人災だと思い込むことは、人の対応が正しければ、その「災い」はなくすることができると思うことである。
 冷静な人間が正しく対応すればあの事故は防げたと思うことである。

 言っておくが、あれは「天災」だったのだ。
 人知をはるかに超えた巨大な地震と津波があの原発を襲ったのだ。
 「想定外」という言葉は、当時大いなる非難をもって人々に迎えられたが、けれども、あの地震も津波も、まちがいなく日本人のほとんどすべてにとっての「想定外」だったのだ。
 あのときの私たち一人一人の胸に浮かんだことを振り返ってみればそのことはよくわかる。
 (すくなくとも、私は地震や津波というものが、かほどのものとは思いもしてはいなかった)
 さほどに、人の「想定」というものは、自然の威力を前にしては、何ほどのものではないのだということを知れ、というのが今回の地震と津波の一番の教訓であるべきものなのだ。

 けれども、当事者たちはその危険性を実はわかっていた。
 指摘されていた。
 にもかかわらず、その指摘を無視し続けたあげくに、結果を見て彼らが「想定外」を言うとき、それは人災になる。

 天災は誰にでも襲いかかる。
 けれども自然への畏れを忘れた者に、それは人災となるだろう。
 災害における人災の部分はもちろん検証され改めねばならないけれど、あたかもそれさえあれば事故は防げるなどという思い上がりは捨てるがいい。
 原子力発電所とは、そのような自然への畏怖を忘れた人間が造り出したもののその最たるものであることを忘れぬ方がいい。

 帆柱は風を受け船を快走させてきた。
 けれども、嵐に遭遇したとき、その帆柱を切り倒す勇気を持った者が力を合わせたときだけ、嵐を乗り越えることがてきた。
 人は昔。・・・・。 
 引用の歌はそう歌っている。
 嵐の中、切り倒さねば船を横転させてしまう帆柱を、いやいや、それでも速さが大事、と言う乗客がいて、それに合わせて、帆柱を切り倒さないこと命ずる船長があれば、それを人は人災と呼ぶだろう。
 あるいは嵐に遭ったときに人たちが力を合わせても切り倒せぬほどの帆柱を装備してしまった船に、すでに私たちは乗り込んでしまったのだろうか。
 だとすれば、そのような船を造ってしまったこと自体が、すでに人災だったのだ。
 それでも、この船を造った者は、またこの船を沈ませるほどの嵐はしばらくはないと思い込んでいるらしい。
 人災の最たるものであろう。


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