あづけたりつる人の心も
家に預けたりつる人の心も荒れたるなりけり。
(家を預けた人の心も家と同様荒れていたのでしょう。)
― 紀貫之 『土佐日記』 (川瀬一馬 校注・現代語訳)―
承平五年(九三五年)二月十六日、土佐の国司としての任期を終え五年ぶりに京に帰って来た紀貫之は、月明りの中、自分の屋敷が荒れはてているのを目にする。
隣家の者が、
「留守の間ちゃんとお邸のお世話はしておきますよ」
と望んで預かってくれていたはずなのに、帰りついた家は
言ふかひなくぞこぼれ破れたる。
お話にならない程、破損していたのだった。
そのとき、貫之はつぶやく。
家に預けたりつる人の心も荒れたるなりけり。
( 私の持っている本の訳は
「家 を 預けた人の心も、荒れていたのでしょう」
となっているが、この訳はよくないような気がする。
訳もあくまで
「家 に 預けていた人の心も、荒れてしまっていたのであるなあ」
の方がよい。
この「を」と「に」のニュアンスの違いがわからないなら文学なんてやる意味がないだろう。)
夕方、気が付けば、私の部屋はそこいらに新聞が散らかり狼藉をきわめている。
たぶん、《部屋にあづけたりつる私の心》も今日一日荒んでいたのだ。
そう思う。
いけないことだ。
いけないことだが、そうなってしまった。
理由はわかっているが、それでもこれはよくない。
本と新聞を片付け掃除をする。
結果再び今日の朝刊の一面の見出しを目にすることになる。
また、ため息が出る。
この国は、あのような事故があってさえ、
「原発がなければ日本は立ち行かない」
と言う首相がいる国である。
原発に預けたりつる人の心は・・・・・。
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