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君のいない十年

 

 

 このひろい東京の町にお前がいない
 このひろい東京の町にお前がいないというのはつまりどういうことなのだろう

 

  ― 中野重治 「今日も」 ―

 

 

 日曜日の毎日新聞の書評欄で、辻原登が山根貞夫の『日本映画時評集成2000-2010』という本を評しながら、最後にその「あとがき」の一部を引用していた。

 

《本書のゲラを読みつつ、二十一世紀初めの十年は何だったのかを考えるうち、はたと思い当たった。相米慎二のいない十年。》

 

  そうか
と思った。
 映画監督相米慎二、についての、そうか、ではない。
 そうではなくて、自分にとってのある年月を総括するとき、誰かの不在をもって語るその話法、あるいは、その思考法についての、そうか、である。
 そのせつなさについての、そうか、である。

 なにも十年でなくてもいい。
 一年であれ、三年であれ、ある年月を振り返ってみたとき、その年月を、その間にあったことではなく、本来なら傍らにいたはずの者の不在、もしくは喪失を以って総括したくなる、そういう思いのことを思ったのだ。

 生きているとは忘れることだ。
 生きていれば日々新しい何かが押し寄せてくる。
 その中で、当初は大きかった「喪失」の思いは心の片隅に押しやられ、やがて人はその「不在」に慣れ、まるでそれを忘れたかのように暮らしてゆく。
 けれども、ふと立ち止まったとき、ふと振り返ったとき、それが「その人のいない〇年」であったと思う時が人には来るのだ。
 それは日々思っていた人ではない。
 にもかかわらず、その年月が「その人のいない十年」であったと思った時、その人が自分にとっていかに大事な人だったかに改めて気づく。
 それが、なんだかいいなあ、と思ったのだ。

 ・・・・などと書くと、山根貞夫の「あとがき」の思いからは離れて、すこし甘すぎる感想になっているかもしれないけどね。
 まあ、甘いのは私の生来のものだから、甘さついでに中野重治のと並べて
 

  遠さがきみを  ぼくのなかに溢れさせる
  不在がきみを ぼくの臓腑に住みつかせる

 

 以前引用した大岡信の詩も載せておこう。 

 そういえば、ヤギコのお兄ちゃんの「イカちゃん」がいなくなって十年になる。

   イカちゃんのいない十年。

 実はこう書いてもあんまり感慨はないのだが、でも、明日は新しいお花を買って来ようっと。
 だって、ひさしぶりにあいつのこと思い出したんだもの!


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