カルナナンダ
ハアーアアア 色もうれしや 数えりゃ五つ
仰ぐ旗見りや 弾む胸
姿かたちはちがっていても
いずれ劣らぬ若い花
ヨイショ コラ 若い花
オリンピックの庭に咲く
ソレ トトント トトント 庭に咲く
― 三波春夫 「東京五輪音頭」 ―
昔、カルナナンダという人がいた。
昨日の夕刊にこの名前が載っていた。
そんな名前、忘れていたはずなのに、その名前を目にした途端、私の中の何かが動いた。
たぶん私の年代の人の多くはそうなる。
カルナナンダ。
たしかにそんな人がいた。
1964年、東京オリンピックがあった。
オリンピックにはもちろん陸上競技があり、一万メートルの競走もある。
400メートルのトラックを25周する競走だ。
その競走でほかの選手が次々ゴールする中、ゴールを過ぎても走っている選手がいた。
それがカルナナンダだった。
周回遅れだった。
ただしその遅れは一周どころの話ではなかった。
彼がもう誰もいなくなったトラックを二周回っても、そこはまだゴールではなかった。
スタンドの誰もが、そしてテレビを見ていた誰もが呆れかえっている中、彼はまたも新しい周回へと向かっていた。
みんな彼を見つめていた。
そんな中、最後の直線に入ったとき、彼はラストスパートをした。
誰もが手をたたきみんなが彼を応援していた。
それがカルナナンダだった。
彼はセイロンから東京オリンピックにやって来たたった一人の選手だった。
だが、だれも彼がセイロンのために走っているのだとは思わなかった。
そうではなくて、あえて言うなら、彼はオリンピックという若者の祭典の名誉のために走っているように思えた。
そして、セイロンの名誉というなら、そのような青年をオリンピックに送り込んだことがセイロンという国の名誉なのだと思えたのだ。
これがオリンピックというものなのだ、とあの頃の日本人のだれもが思った。
それがカルナナンダだった。
すべてのものと同じくオリンピックもまたこの50年近くの間で変わってしまった。
どう変わったか、その一々をあげつらうほどその後の私は熱心にオリンピックを見てきたわけではない。
ただ、参加する誰もがただただオリンピックから栄誉を得ようとするばかりで、実は参加する自分たちの健闘こそがオリンピックという祭典に栄誉を与えるものであることを忘れてしまっているように思えるだけだ。
日本中が、オリンピックの中に世界と未来への底抜けとも思える信頼を見、三波春夫がそれを「東京五輪音頭」で歌った時代がなんだか懐かしい。
新聞によればカルナナンダ氏はあのラストスパートから10年後の74年に水死されたそうである。
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