われに五月を
たれでもその歌をうたえる
それは五月のうた
ぼくも知らない ぼくたちの
新しい光の季節のうた
― 寺山修司 「少女に」 ―
今日、今年はじめての、完璧な、五月!
空。
微風。
緑。
今日は「子供の日」だったけれど、五月はほんとうは〈二十歳の月〉なんだよ。
きらめく季節に
たれがあの帆を歌ったか
つかのまの僕に
過ぎてゆく時よ
二十才 僕は五月に誕生した
僕は木の葉をふみ若い樹木をよんでみる
いまこそ時 僕は僕の季節の入口で
はにかみながら鳥たちへ
手をあげてみる
二十才 僕は五月に誕生した
(寺山修司 「五月の詩」)
昨日は寺山修司の命日だった。
1983年というから、かれこれ二〇年も昔のことになる。
何かの縁だろう、そんな昨日、たまたま読んでいた谷川俊太郎の『手紙』という詩集に彼への弔詩が載っていた。
題名は「五月に」。
詩は当然のように
二十歳 きみは五月に誕生した
という一行で始まっていた。
本当は彼は十二月生まれなんだけれど、でも誰にだって「二十歳」は五月に生まれる。
新しいすべてにもう一度名前がつけられる。
いくつになっても五月はいい。
それはいつだって〈自分〉を忘れられる月だ。
五月の空がそうさせてくれる。
だから五月のぼくらは幸せなのだ。
僕の傷みがあつまって、日ざしのなかで
小さな眠りになったとき
季節は
かざした手の中でささやきあう
書を捨てよ町に出よう
彼はそう煽動したけれど、六十近い今日の私は散歩の帰りに買った鰹を肴に日本酒だった。
そして「小さな眠り」から目が覚めたら、まだ明るい夕暮れだった。
もう私に、あつまるほどの「傷み」なんてなかったんだけどね。
寺山修司にはこんな俳句もある。
目をつむりていても吾(あ)を統(す)ぶ五月の鷹
やっぱり五月はたれにとっても〈二十歳の月〉だ。
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