東西バカ猫比べ
いとも物静かなセリマ、
三毛の雌猫、――何やら思いつめた様子。
彼女は、眼下に揺れる水の面をじっと見つめていた。
意味ありげな尻尾の動きが、彼女の喜びを物語っていた。
― トマス・グレイ 「金魚鉢で溺死した愛猫を悼む」 (平井正穂 編 『イギリス名詩選』)―
眠っていると、なにやら音がする。
ぴちゃ、ぴちゃ。
イヤな音である。
昔、金沢、寺町、シネマ・パレスの暗闇で小学生のひろし君を恐怖せしめた「化け猫」映画では、この音とともに油を舐める猫の大きな黒い影が灯に照らされて障子に映しだされたもんである。
なにごとならん!
闇に、目を凝らせば、何のことはない。
ヤギコが金魚鉢から水を飲んでおるのである。
なんなんですかねえ、この猫は。
どういうわけだか、今年に入って、ヤギ殿は一貫して金魚鉢から水を飲むことを偏愛しておるのである。
別に夜だけではない。
私が餌皿の横に用意しておく水なんぞには見向きもせず、両前脚を水槽の縁に掛け、顔をつきだして水を飲むのである。
無精者の主人がめったに換えぬこぎたない水である。
しかしまあ、昔私が毎日泳いでいた二水高校のプールの水もこんなものであったし(夏場はもっとひどかった!)、ましてや死体が流れておるとも知らず遠泳を試みたインド、ヴァラナシのガンジス河の濁り水に比べれば、これはほとんど谷川の水、清らなものである。
あのような水を飲んですら、人である私はなんともなかったのである。
いはんや、ヤギ殿は「九生あり」とまで言われている猫である。
かかる水を飲んでも平気の平左であること言うまでもない。
とはいえ、肢を踏ん張り体を目いっぱい伸ばして水を飲む様子、いかにもバカである。
飲み終えて、かたわらに正座して口のあたりをぬぐう様子もバカである。
と、まあ、このねこがバカであることは重々承知していたが、解せないのは、金魚の方である。
こいつはひちゃひちゃ鳴る水音に餌をくれるのかと勘違いしてか、ヤギ殿の口もとに寄って行くのである。
手を叩けば水面に上がって来る池の鯉みたいなもんですな。
で、ヤギ殿がぴちゃぴちゃやっているベロと触れなんばかりのところまで上昇してくる。
アホでしょう。
アホです。
人間に「虎口に近づく」、なんて言葉がありますが、(ないか。「虎口を逃れる」ですか)、魚が「猫口に近づく」なんてそれ以上でしょう。
これは、まあ「絶体絶命」を絵に描いたようなもんです。
しかるに、このバカとアホウの二人にはなんらの事件は起きんのです。
実に平和に、目と目を見合わせ別れるのです。
うーん。
なんなんですかねえ。
手を垂れてキスを待ち居し表情の幼きを恋ひ別れ来たりぬ
ですかねえ。
うーん。
ところで、引用の詩にでてくる《セリマ》というこの猫はどうやら美しい金魚に目が眩んで金魚鉢に落ち込み溺れ死んでしまったらしいのですが、それを思えば、案外ヤギはバカではないのかもしれないと思ったりもします。
しかし、こんものをはたして詩にしたり、ましてや「イギリス名詩選」なんて本に載っていいもんでしょうか。
もっとも、この詩の最後には教訓がついています。
それで名詩なのかもしれません。
貴女たちの浮ついた目と軽はずみな心を
魅了するもの、必ずしも自慢に値するよき獲物ではなく、
輝くもの、必ずしもすべて黄金ではない
どうやら女性への教訓らしい。
念のために書いておけば、あくまで十八世紀の女性への、ですが。
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