ユーザー視点
昔しの書生は、笈(きゅう)を負ひて四方を遊歴し、此(この)人ならばと思ふ先生の許(もと)に落付く、故に先生を敬ふ事、父兄に過ぎたり、先生も亦(また)弟子に対する事、真の子の如し、是でなくては真の教育といふ事は出来ぬなり、今の書生は学校を旅屋の如く思ふ、金を出して暫(しば)らく逗留するに過ぎず、厭になればすぐに宿を移す、かかる生徒に対する校長は、宿屋の主人の如く、教師は番頭丁稚(でっち)なり、主人たる校長すら、時に御客の機嫌を取らねばならず、況(いはん)や番頭丁稚をや、薫陶どころか解雇されざるを以て幸福と思ふ位也、生徒の増長し教員の下落するは当前の事なり。
― 夏目漱石 『愚見数則』 ―
今日は風もなく、はたまた昨日の如き夕立もなくなかなかよい一日であった。
古墳公園の桜は半分がほど散って、葉はいまだ出でず、枝々のすき間から見える空に春の雲がのんびり流れている。
なにやら気鬱が続いていた私も今日はなかなかよいような。
春愁などというシャレたものではなく、ただの気鬱。
部屋を片付けたらすっきりする程度のものである。
さて今朝の朝日新聞の教育欄に
《『ユーザー視点』の橋下教育改革》
という記事が載っている。(話は今日から三回続くらしい)
「ユーザー視点」か、とうんざりする。
読んでみれば、ますますうんざりする。
なんでも彼は「教育」を「サービス」ととらえ、大阪にも学校選択制を導入するつもりらしい。
先に学校選択制を導入した自治体では、これを見直して元に戻したところがたんとある、とこの前の新聞に出ていたのに、その愚をまたやってみるらしい。
なぜその試みが失敗するのか。
その理由は私なんかが書かなくても内田樹氏がこれでもかこれでもかというくらい書いている。
余のことは知らず、少なくとも「学ぶ」ことにおいて自分を「ユーザー」だなどと思っているものは、早くもその時点で何も学べないということだ。
ところが、あの人がこれでもかこれでもかとあれほど書いていても、実はだあれも分からないらしい。
学ぶことはサービスを受け取ることとはちがう。
この世にふんぞり返って何かを学んだ者がいったいどこにいるか。
ところが、世の人たちは「いい学校」に行き「いい先生」に教わればみんな賢くなると思っているらしい。
ナントカリンクルを使えば婆さんの皺が必ず伸びる、みたいな話は、学びにはない。
馬鹿げたことだ。
引用した漱石の「愚見数則」は彼が愛媛県尋常中学校教員時代(つまり「坊っちゃん」の時代に)学校の雑誌に頼まれて、中学生に読ませるべく書いたものであるという。
文庫にして5ページ余り。
岩波の「漱石文明論集」に載っているから立ち読みされるがよろしい。
読みながら思わず笑うこと必定である。
生身の「坊っちゃん」がそこにいる。
今や大学全入の時代、大学の学長すら「宿屋の主人」の時代である。
明治の中学生に向かって書かれたものを今の大学生に読ませればなんと言うか。
わかる者にはわかるし、わからない者にはわからないが、わからなくてもこれは大事なことが書いてあるらしいと思えばそれは「学ぶ」心構えができているということである。
まあ、子どもらに言う言葉は漱石同様私だってこれだけである。
勉強せねば碌な者になれぬと覚悟すべし
別に自分がロクな者にならなくてもいいや、と思っている馬鹿学生、馬鹿生徒も年を取ればなるほどそうかと思う時もそのうち来るだろう。
来なければ、それは本当のロクデナシである。
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