よどみ
わたしたちは、氷砂糖をほしいくらゐもたないでも、きれいにすきとほつた風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗や、宝石いりのきものに、かはつてゐるのをたびたび見ました。
わたくしは、さういふきれいなたべものやきものをすきです。
― 宮澤賢治 「注文の多い料理店 序」 ―
川にはよどみ、というものがあります。
本来流れゆくべき川の流れがそこにとどこおっている場所のことです。
もちろんそれは自然の地形の中でもできます。
たとえば、湾曲した流れの外縁部は深くえぐられて淵となり、そこの流れはゆるやかになります。
あの山椒魚が岩屋の出入口から眺めていたのもそんな谷川の淀みでした。
日本の川はそのほとんどが急流で、もちろんそれは美しい澄んだ流れなのですが、あまりに早い流れはそれを使うことができないので、人はそんな急流に堰をつくって水を堰き止め、人工の淀みをつくりました。
そのようにしてよどませた水を、たとえば水路をつくって田に引きこみ、あるいは生活用水として使ったりしてきました。
鴨長明は
淀みに浮かぶうたかたはかつ消えかつ結びて
と書いていますが、本来水の泡(うたかた)は淀みにではなく、よどみをつくった堰を越えたところにできるのです。
もちろんそれは出来た端から消えていきます。
淀みには流れの早い場所よりも多くの種類の生き物が生きています。
子どもの頃、毎日川に行って魚を捕まえていた私はそのことをよく知っています。
あまりに速い流れは一部の生き物以外あまり生きやすくはないのです。
さて、私たちは生活の便利のために社会のあちこちにさまざまな「よどみ」をつくってきました。
それはあるいは制度であったりあるいは慣習であったりしました。
それは私たちが安んじて生きることができる拠り所だったのです。
けれど、大切なことは「よどみ」とは、実は常に新しい水が供給される場所のことだということです。
水は同じように満ちているように見えても、あとから来た水に押されて、もとからいる水の一部は用水に取り込まれ、そしてそのほとんどは時間がくれば堰を越えて流れ出て行きます。
そのようにして「よどみ」を構成する水は代わっていき、そのようにして「よどみ」は健全に機能してきたのです。
この間私たちは自分たちの社会が自ら発する腐臭をイヤというほど嗅いできました。
それは私たちの周りに積み上げられた堰があまりにも高くあまりにも分厚く、古い水がどこにも行かないことから生じた腐臭でした。
それは深い「疲れ」となって私たちの中に蓄積し、気がつけば自分自身もまたその一部が腐り始めているかのようです。
これをなくすには、すべての堰を壊し、「よどみ」そのものをなくしてしまえばいいのだという大阪市長の橋下氏のような意見も出ます。
けれど、よどみのない急流でも生きていける生き物は多くはないのです。
適度に流れ適度に淀む、そんな「よどみ」をもつ社会を私たちはどうすればつくれるのか、深い「疲れ」の中からぼんやり考えています。
引用は、全く本文と関係ありません。
ただ、すこし自分を元気づけるために引用してみました。
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