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あの世

 

 

 今も原発を動かしたい人たちは、巨大な古代神にいけにえをささげ続ける神官たちのように見える。そのいけにえは子どもたちの未来なのだ。

  

 ― 津島佑子 「再生への提言」(3・9毎日新聞) ―

 

 

 「あの世」というものがある。
 本当にあるのかどうか誰も知らないが、「あの世」というものがあることになっている。
 それは何も日本だけのことではない。
 キリスト教徒もイスラム教徒にも天国はあり、ヒンドゥ教徒にも輪廻転生する前世はあり、後世はある。
 古代エジプトにも死後の世界は信じらていたし、あらゆる神話はこの世ではないあの世のことを語っている。

 科学はもちろんその存在を証明はしないが、その発生以来400万年人類が培ってきたこの思いが人類に社会を造らせてきたことはまちがいないのだ。
 「倫理」と呼ばれ「道徳」と呼ばれる社会の規範のうちの何割かに、この「あの世」と呼ばれるものの存在が深くかかわっている。
 すくなくとも、利害得失といった「地上の論理」だけでは語れぬ何かがあるのだ、という思いが深く人類を律してきたのだ。
 
 もちろん、人生が一回きりであり、この世のみが自分の生きることなのだと信じて行為した人もたくさんいた。
 けれども、人生というものが、この世にある間の己の生だけを指すのだ、と思う傲慢を過半の者が手にしたのはほんの半世紀にも満たぬこの頃のことだ。
 かつては、そのような生き方は年端もいかぬ若者の特権であったのだが。

 「お天道様」などという実体もよくわからないものに恥ずかしくないように生きる、などと言うのは寝言だ、と思ってはいけないのだ。
 なにも私がそのように生きているというのでは、もちろんない。
 むしろ私はおてんとさまに顔向けできないようなことばかりをしている男だ。
 けれども、そのように、自分の生き方を問うものとして、この世の論理では計れぬものに対する畏れを自分の中に持つことこそが宗教が言う「救い」というものなのだと私は思っている。

 「あの世」というものがある。
 もちろん、肉体が亡びすべてが元素に分解されたあとも、まだ「魂」はどこかにある、というのは虚妄である。
 けれども、その虚妄を持っていたからこそ、人類は周囲の者と手をつなぎ、親から子へ子から孫へと命をつないでここまで生き延びてきたのだ。
 私たちにとって「あの世」とは自分の祖先たちがいる場所であり、やがてわれわれが行き自分の子孫たちを見守る場所である。

 「あの世」はある。
 あるいは、なければならない。
 今朝の新聞の津島氏の言葉を読んで、そんな昔考えたことを思い出した。
 むろん、原発は、いらない。


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